ドイツ週刊紙ツァイトの記事
2011年 06月 03日
ツァイトは、1946年2月21日創刊、週刊発行の全国新聞でハンブルクに本拠があります。発行部数は約48万部、推定読者数は200万人以上とされ、最も広く読まれるドイツの新聞のひとつといわれます。http://www.zeit.de/index

●ひとりで東電と闘う - 長靴をはき放射線測定器を手に、国と原子力産業相手に挑戦を続ける地方政治家がいる
午前9時、いわき市小名浜にある役所の人ごみの中で、市議会議員の姿佐藤和良を見つけるのはむずかしい。マスクを二重につけ、雨合羽に身をつつみ、長靴をはいているため、顔が見分けにくいせいもある。いわき市は人口34万人、福島原子力発電所の周辺では一番大きな町だ。放射能を出し続けている原子炉から約45キロ離れている。この役所の建物の1階は、朝から多くの人が出入りし、あわただしい。復興助成金や補償金が必要な人、ヨード剤を取りに来る人などであふれている。
建物の外では、ボランティアのグループが待機している。10人ほどの男性が、2台のミニバスを連ねてやってきたのだ。皆原発に反対する人たちで、そのうちふたりはアウトドアライフのトレーナーを仕事としており、職場のミニバスをこの旅行のために提供した。グループのリーダー格になっているのは静岡市議会議員宮沢けいすけ。佐藤和良の友人でもある。「佐藤さんの言うことを聞いておけば、こんな事故にはならなかったはず」と宮沢は言う。「だからこそ、こうしてボランティアとして佐藤さんのいる所に来て手伝っているのです」。長期にわたって原子力開発を進めてきた日本という国において、佐藤は原子力産業を批判し続けてきた。福島の大災害が起きてから、彼の闘いは果たして、それ以前より容易に、そして成功の見通しがたちやすいものになったと言えるのだろうか。一匹狼の反対派にとって有利な時がやってきたのだろうか。
宮沢はセーター、穴のあいたジーンズにピンクの運動靴といういでたちだ。佐藤は宮沢に、雨合羽を着、長靴をはくようにすすめる。宮沢たちのグループは車を路上にとめて一晩を過ごした。これからすぐ仕事を始めることになっている。佐藤が彼らをふたつのグループに分ける。ひとつのグループは、津波の被害者たちの手伝いをし、もうひとつのグループは原発周辺の避難地域の放射線測定を行うようにという指示を受ける。佐藤は、津波被害者の手助けをするグループに、事務所の裏からスコップを持ってきて手渡す。もうひとつのグループは放射線測定器を受け取る。佐藤のジープが動き出す。小名浜港周辺を通ると、そこには岸壁の上に横たわるいくつもの大きな船舶、枝にひっかかって、まるでこずえ全体にしゃがみんこんでいる巨大な鳥のように見える車の残骸といった光景が広がる。このあたりの住宅街は津波によって破壊し尽くされた。正常などという言葉はここには存在しない。
このちょうど3日前、福島の大災害が起きてから初めて東京で開かれた反原発の集会に、佐藤は現地からの報告者として出席した。核に批判的な世界中の人たちの間では知られた名前であり、広島長崎の被爆者を支援する原水禁が事務所を置いている労働組合ビル、総評会館がこの集会の会場となった。1980年代までここでは、世界中からヒバクシャを招待して定期的に国際会議が開かれていた。けれどもその後、原水禁の活動も前ほどさかんではなくなった。広島長崎の著名な被爆者たちの中にはすでに他界した人たちも多い。「核技術と人類の共存はありえない」という被爆者たちの根本的主張に耳を傾ける人たちが日本ではいなくなってしまった。福島での出来事がこういう状況を変えることになるのだろうか。
この晩、佐藤の前には約300人の聴衆が会場を埋めくした。若い人は少なく、ドイツの68年世代のように社会の慣習に反抗し、ベトナム戦争に反対した年配の世代、髪に白いものの目立つ人たちの方が多い。ここに来た人たちは髪の毛をあまり染めていない。57才の佐藤は世代的にはもっと若いし、実は髪の毛を染めている。(*本人注:髪は染めていません)
彼は1960年代終わりごろ,10代の時から、政治活動に熱心だった両親と共に平和運動に参加していた。父親は鉄道員で、当時勢いのあった国鉄労働組合で活動し、母親は教員、核問題にも批判的な立場をとっていた日教組の組合員だった。佐藤は両親と共に、福島第二原発から8キロに位置する楢葉に住んでいた。すでに60年代から東電は、第二原発と、そこから北に15キロ行ったところにある第一原発の用地買収を始めていた。漁民は漁業権を売り、農民は土地を手放すように迫られた。すすんで売り渡す者、値段交渉に時間をかける者、生活の糧となる権利を奪われることにあくまで抵抗する者などいろいろだった。「東電は、原発に反対する住民を分裂させ、最後には金の力で地域をばらばらにしたから、あの頃から東電には怒りを感じていた」と佐藤は振り返る。原発に反対する無所属の候補者として2004年に、いわき市議選に立候補した佐藤は当選し、2008年にも再選されている。
東京の集会で佐藤は、テレビに映る東電幹部が着ているような作業服を着て登場した。胸に横幅の広いポケットがついている。彼は2時間あまりの講演の間、休憩時間を除いて、ずっと立ちっぱなしで話を続けたが、雄弁にして、ユーモアもあり聴衆を笑わせ、何度も大きな拍手を受け取った。声をはりあげるわけではなく、むしろさりげなく「福島の事故で世界は変わりました。私たちはヒバク中、ヒバク後の世界にいるのです」と言ってみせる。日本では、広島長崎の原爆被害者をヒバクシャという。だから、我々はみなヒバクシャになったという表現はずしんと重たい。
3日後、いわき市の破壊された海岸線をボランティアたちと一緒に移動している最中、佐藤は魚の卸売りを営む中田のもとを訪ねる。いわき市の入江に位置する中田の大きな木造の家屋は、津波によって半壊した。家を支える柱や屋根は傾き、壁も水がさらっていってしまった。佐藤と中田は、全壊として家を取り壊すか、このまま修理をするか、どちらがいいか相談をすすめる。春の日差しの中、中田は分厚いアノラックを2枚も着ている。彼は58才だが、代々受け継いできた商売は100年も続いているという。「佐藤さんは友だちですよ。ただ今まで反原発運動がそんなに大事だとは思ってこなかった。でもこうなった今、佐藤さんの言っていたことが正しかったんだとわかりました。このあたりの人たちの80パーセントぐらいがそう思っているはずですよ。倒れた家を建て直すことはできる。でも放射能はいつまでも残ってしまう」。
中田はしばらく話を続けた後、疲れた様子で地面に視線を移した。佐藤はあいさつをして中田の家を去る。漁師や、農民、商人たちにとって、放射線にまみれた未来を思い浮かべることがいかにむずかしいか、佐藤にはよくわかっている。原子炉内の放射能汚染があまりにもひどく、技術者や労働者が中に入ることもまだない状況なのだ。ということは福島第一原発は、これからも空気、水、土壌を放射能で汚染し続けるということだ。いわきに住んでいる人間はみなこの事実を知っている。とりわけ中田のように年配の日本人は、広島長崎のヒバクシャたちの過酷な運命を学んできた。放射能物質がすぐにはなくならないこと、何年もたってからガン発症につながることなどを、戦後日本では学校教育の中で教えてきた。中田も、いわきの魚がしばらくは売れなくなるだろうことを自覚しているに違いない。ただ彼はそのことを口には出そうとしない。
東京での講演会の翌日、佐藤は首相との面会を試みた。しかし結局、何の飾り気もない窓のない部屋で1時間待たされた上、原子力保安院の役人2、3人が出てきただけだった。いわきとその周辺地域の地方議員を代表して、佐藤は役人たちに、7点にわたる要望を説明した。原子炉冷却の効果的遂行、避難地域の明確な設定、放射線測定器の設置、学校の休校措置、農民と漁民への補償、福島県の原発停止、エネルギー政策の再考。欧米であれば、こうした要求は、原子力をめぐる論争においてむしろメインストリームであると言っていい。しかし日本では、こういう内容の議論はグリーンピースが提起することはあっても、政治にたずさわる者の口からはまずほとんど出てこない。保安院の役人たちも、佐藤の要求をにべもなくはねつけただけだった。そしてその後、佐藤が記者会見を行ったときも、聞きにきていたのは3人のフリージャーナリストだけで、大手の新聞社やテレビ局の記者はひとりも姿を現さなかった。
いわきの地元でも佐藤の立場は容易ではなかった。「いわきは古い殿様の町のようで、お城に住んでいるのは東電だ」と彼は言う。だからいわきの多くの住民は、もうとっくに東電の存在を受け入れ、東電と共に繁栄する道を選んだ。だが佐藤はそうした人たちのことを非難しようとは思わない。「彼らにとっても他に選択肢がなかったのだから」。今回の事故で、こうした地元の状況が変わる可能性があるかもしれないと、佐藤は思う。でも知ったかぶりをするつもりはないし、とにかく具体的措置として、放射線測定、特に市内だけでも120ある学校での測定を要求していくつもりだ。
「佐藤さんがしゃべっているのは意味のないことばかりですよ」と言ってはばからないのは、鈴木英司、いわき市の副市長を務めている。59才になる鈴木は、やはり作業服を着て、ネクタイはしめていない。市役所が地震でひどく損傷を受けたため、役所は一時的に別の場所に移っている。その一室にすわっている鈴木は、選挙で選ばれた政治家ではなく、いわき市の役人だ。そして佐藤の立場の反対者でもある。儒教の伝統が残る日本では、政治家より官僚、役人の方がいまだに発言権が強い。
とはいえ、鈴木も、原発事故が起きた今、事故前と同じような話を繰り返すことができないのはわかっている。「電気消費に頼りきった経済と生活のあり方を問い直す必要があるのは確かです」という鈴木だが、具体的な話になると歯切れが悪い。福島第二原発を再び稼動させるべきかどうかという質問にも、はっきりと答えようとしないし、福島県の放射線測定値に頼るのではなく、いわき市も独自の測定を行うべきではないかという質問にも明確な返事は聞かれない。それでいて、原発に反対している佐藤のことになると多弁になる。「100箇所で放射線測定しろと言っているようだけれど、私に言わせれば論理的じゃないですよ 非科学的と言ってもいい」。
けれども福島の事故が起きてから、鈴木の部下たち、もっと安い給料で働いている市の公務員たちの間には変化が生まれつつある。「いわき市で佐藤さんのことを知らない人はいないですよ。今となってはみんな原発に反対です。事故が起きる一ヶ月前にはそうではありませんでしたけれど」というのは市民課で働く年配の一公務員だ。もともと自分は保守的な人間で、こういう事態の中でも、市民の間にパニックが起こらないようにするにはどうしたらいいか頭を悩ませていると言う。けれども、とにかくもうだまされるのはいやだと思っている。「実は妻は今ここの野菜は買っていないんです」と声をひそめて言うのだが、おそらくこうした発言でさえも、市役所で働く一公務員にとっては、おおいなる秘密を打ち明けるような覚悟がいるのだろう。
いわき市政に力を持つ政治家たちは、市民の間に生まれつつあるこうした新しい反抗のきざしに気づいている。そして何としてもそうした芽をつぶしたいと決意しているようだ。「みんな不安なんです。だからどういうふうに生活を立て直すのかを市民に示す必要があるんです」と語るのは根本茂、市議会の自民党議員代表をつとめる人物だ。ごつごつした印象を与える59才の根本は、浴室設備の工場を動かす経営者だが、原発からほど遠くないところにある彼の工場は、放射線汚染の危険のため閉鎖せざるをえなくなった。「地元の農民や漁師と同じで、私も仕事を失ってしまったということです」。
だが根本は、3月11日以前の状況認識をそのままひきずっているようだ。彼の言うことは、「東電城」の城内で話される言葉とおぼしき表現に他ならない。「日本は、ハンモックぶらさげてのんびりしていられるような南の島ではないんですよ。私たちが原発を受け入れたのは、日本の発展につながるものだったからです。今になって簡単にあきらめるわけにはいきません」。原発を批判する佐藤の言葉に耳を傾ける気はなさそうだ。「佐藤さんは市民の不安をあおるんです。それに何にでも反対する人です。鳥がひっかかるのが心配だといって、風力発電にだって反対するんだから」。こうした根本のようにかたくなな人物や、根本よりはいささか柔軟そうには見える鈴木副市長などを、東電はどうやらこれからもあてにしていいようだ。
自分を取り囲む環境の厳しさを口にすることのない佐藤だが、東京に住むふたりのこどもたちの話をすると、ふっと湧き出る感情があるらしい。もう成人したこどもたちも原発に反対している。福島の状況を考えると、両親に東京に来てほしいという気持ちはあるけれど、原発に反対して闘っている父親の姿を目にしたふたりは「頑張って」と言ってくれたという。佐藤がこの闘いをあきらめることはない。
(日本語訳:山本知佳子)


大変と思いますが挫けないで頑張ってください。

この記事を読むと、これまでおかしいと思ってきたこと、地元の友人から聞いたことなどが、つながってきました。
国家戦略室のまとめた「革新的エネルギー・環境戦略」が原発推進路線のままだと、新聞で見ました。
これだけ多くの人が苦難なめにあい、その苦難は数十年続きます。
事故がなくても原発立地のまちは、常に放射能の危険に向かい合っています。
それなのに、こんなことを続ける国に対して、絶望感でいっぱいです。
菅おろしに躍起な方たちの名前が、地下式原子力発電所政策推進議員連盟の中に見られます。恐ろしいです。



