肥田舜太郎さんのお話を聴こう
2011年 09月 23日
肥田舜太郎先生は、広島市に生まれ、陸軍軍医として広島陸軍病院に勤務中、1945年アメリカ軍が投下した広島原爆で被爆しました。被爆直後から多数の被爆者の治療にあたり、原爆被爆の実態と治療に向き合い、多くの命をみとってこられました。
肥田さんは、現在94歳です。生涯、被爆者の治療を続けるかたわら、海外渡航32回、のべ33カ国で内部被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴え続けてきました。その中で、ピッツバーグ大学医学部のスターングラス教授と出会います。
同教授は、スリーマイル島原発事故やサバンナリバー原爆工場事故などの核施設の大事故により環境に放出された低線量放射線の危険性、有害性を膨大な資料を挙げて警告し続けてきた希有の科学者でした。肥田さんは、1978年に同教授の著書『死に過ぎた赤ん坊ー低レベル放射線の恐怖』を翻訳し日本で刊行しました。
肥田さんが出演した「ヒバクシャー世界の終わりに」の鎌仲ひとみ監督との共著「内部被曝の脅威」で鎌仲さんの『肥田先生のお話を聞いて、触発されて、同じ方向を歩もうとする医師たちもいるわけですよね』と言う問いに、肥田さんは、次のように答えています。
『もちろんそうですが、残念ながら、その数は極めて少ない、私の話しに対して、たくさんの人が反応してくれるけど、私と同じように考える医者は少ないのです。威力の大きな爆弾としての原爆の被害は理解するけれど、内部被曝がゆっくり人を殺すことを確信できる医師はほとんどいません。彼らの尺度は現在の医学であり、それが内部被曝の脅威を認めないかぎり、その線を離れられないのです。ただ、私がもっと言葉を持っていたなら、周りをもっと巻き込めたはずですから、被ばくについて無関心な医者が多いのは私の責任でもあるのです。』
これをうけて鎌仲さんは、『現在は、放射能についての情報がたくさんあります。だから、誰だってその気になれば、独力で放射能被害について知ることができます。ある程度の知識を得れば、「(低線量放射線は)安全だ」と高唱するICRPのような団体の信憑性を判断することもできるでしょう。』
一方、山下俊一氏らが主導する「福島県民健康管理調査」が始まっていますが、専門家はこの調査を「放射線暴露量を少なく見積もる」「被ばく核種をセシウムとヨードだけに限る」「健康影響を調査をしない」「いかなる健康被害も精神的なものであると言い逃れる」と批判しています。「この健康管理調査に関する文書は、県当局が放射線被曝の健康影響を隠すための計画を推進する立場にあることを早々と示す衝撃的なものです」とクリス・バズビー氏はコメントし、福島でもチェルノブイリ事故後に行われた方策が講じられるだろうと予測できるとしています。
いま私たちは、長期にわたる低線量被曝にさらされて生きねばならない所に生活しています。
ここでどう生きるのか。子どもも大人も、被ばくをより低く抑え、どうしたら健康を維持して、生きていけるのか。
悩みはつきませんが、被爆者として生き、低線量放射線の内部被曝を研究し、真っ向から格闘してこられた94歳の肥田舜太郎先生と鎌仲ひとみ監督のお話を聴き、私たち自身のこれからの生きる道、生き方を探っていきましょう。
是非お聴きください。
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●Iwaki ACTION gathering Vol.3
『私たちのこれからを考える ~FUKUSHIMAの子供たちへのメッセージ~』
肥田舜太郎・鎌仲ひとみ 座談会
◆日時:2011年9月25日(日)
開場17:00 開演17:15 講演会終了19:30
◆会場:総合保健福祉センター(内郷保健センター)
福島県いわき市内郷高坂町四方木田191
tel 0246-27-8555
◆参加費:500円 高校生以下無料
◆共催:いわきアクション!ママの会 / 脱原発福島ネットワーク
◆協力:NO NUKES MORE HEARTS / 日々の新聞 /何とかしよういわきの医療・市民の会
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◆肥田舜太郎 プロフィール
1917年、広島市生まれ。1944年、陸軍軍医学校卒。軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。
1945年8月6日、爆心地から六キロ離れた戸坂村で原爆に遭う、その後多数の被爆者の治療にあたり、被爆。
終戦後全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の創立に参加。
全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長などを歴任。
現在、全日本民医連顧問、日本被団協被爆者中央相談所理事長。
生涯、被爆者の治療を続けるかたわら、海外渡航32回、のべ33カ国
で内部被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴え続けてきた。
◆鎌仲ひとみ プロフィール
映像作家。早稲田大学卒業と同時にドキュメンタリー制作の現場へ。
90年最初の作品「スエチャおじさん」を監督、同年文化庁の助成を受けてカナダ国立映画制作所へ。93年からN Yでペーパータイガーに参加してメディア・アクティビスト活動。
95年帰国以来映像作家として活動。「エンデの遺言」などテレビ番組を多数監督。2003年テレビからドキュメンタリー映画に転換し、直接観客に作品を届ける方法で上映活動を展開する。「ヒバクシャー世界の終わりに」を監督、受賞多数、国内外400ヶ所で上映。2006年「六ヶ所村ラプソディー」監督。650ヶ所で上映。
新作「ミツバチの羽音と地球の回転」を全国で上映会を展開中。
著書「ドキュメンタリーの力」「ヒバクシャードキュメンタリー映画の現場から」など。多摩美、ICU、などで非常勤講師。