ウクライナ調査報告–2 坂田ウクライナ特命全権大使
2012年 05月 24日
坂田大使は、東京大学工学部から、1974年科学技術庁入庁し、科学技術庁科学技術政策局計画課企画官、文部科学大臣官房審議官、理化学研究所理事、文部科学大臣官房長、文部科学審議官を経て、2009年7月から、2010年7月まで文部科学事務次官。退官後、文部科学省顧問を経て、2011年9月1日より、ウクライナ大使。2011年10月10日にウクライナ駐箚日本国特命全権大使としてキエフに着任し、モルドバ駐箚日本国特命全権大使も兼任しています。
ウクライナについては、「ヨーロッパの穀倉」地帯として日本でも知られています。歴史的・文化的に中央・東ヨーロッパとの関係が深く、キエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持ちませんでした。18世紀のウクライナ・コサック国家後、ロシア帝国の支配下に入り、第一次世界大戦後に独立宣言、ロシア内戦をへて、ソビエト連邦の構成国となりました。ソ連時代の1986年にチェルノブイリ原子力発電所事故が起き、1991年ソ連崩壊に伴い独立しました。
2012年1月、ウクライナと日本は外交関係樹立20周年という節目を迎えました。昨年3月の東日本大震災と福島原子力発電所事故では、ウクライナ政府と国民から、お見舞いや激励、人的・物的支援をいただています。
チェルノブイリ原発事故から26年目のウクライナの首都キエフの中心部は、スターリン時代の社会主義ゴチック建築を思わせる街並みでした。日本大使館は、独立広場に近い、フィルハーモニー近くのビルの中でした。
坂田大使は、様々な事故対策をしてきたウクライナができたこと、できなかったことを良くみて欲しいと調査団にアドバイス。チェルノブイリ原発事故と福島原発事故を経験し、福島や日本がチェルノブイリ原発事故から何を学ぶのか、福島原発事故の教訓を日本は世界に何を発信するのかとして、国際緊急時協力体制の条約化などを提言されました。意見交換の中での問題提起は、以下のようなものです。
1、 皆さんは住民の立場が必要条件であるが、あれだけの国際的な迷惑を、逆にいえば世界から助けられた日本の責任において、原子力をどうするかは横において、あの事故を通じて原発の安全な原点を作って世界にフィードバックしてもらいたい。
2、 福島原発事故のような悲惨で不幸な事故は世界から助けられなければならないが、内戦において国連PKOという仕組みがある。原子力事故に関する国際PKOつくるべき、国際条約化して世界中が助け合う国際制度を打ち立てなければならない。
3、 原子力損害賠償条約には、パリ条約、ウイーン条約、補完的補償条約の3つがあるが、今回、日本は原子力損害賠償制度という福島原発事故に関する支援機構を立ち上げたが、この経験も国際社会にフィードバックしなければならない。
4、 福島原発事故の「現場」を事故炉の安全な技術力を見につけてもらう、誰も経験したことのない「修羅場」、その中から新しい技術を考案しなければならないが、「学びの場」として国際開放するような貢献・活用もあるのではないか。
また、福島原発事故後、政府は警戒区域などの住民について除染―帰還の方針をとっているが、地方分権を尊重する立場で首長の言い分を無視できないし、住民の声と離れる場合もあることをどのように考えたらいいか、との質問に対し、坂田大使は「政府は首長の立場を尊重しなければならない。しかし、首長として帰らせることはできても責任をとりきれない。政府は過去に例のない、違う判断もしてはいけないことはない。首長に任せることに限界もある。政府の毅然とした判断が求められる」と話していました。また、日本は「大震災を被っていながらIMFに600億、ウクライナのODAなど国際コミットメントの推進は高い評価を受けている。税、震災など内向きになるのでなく国際協力に日本の姿勢を示すべきだ」とも語っていました。
坂田大使は、日本政府の原子力政策を推進してきた科学技術庁の中枢から文部科学事務次官となり、さらに福島原発震災後、チェルノブイリ原子力発電所事故が起きたウクライナ特命全権大使となり手腕をふるっているだけに、日本政府–外務省の基本的な立場を知るにふさわしい訪問となりました。
次回の第3回は、ウクライナ政府非常事態省のチェルノブイリ事故住民保護課での調査を報告します。