ウクライナ調査報告ー6チェルノブイリ事故と被災者支援
2012年 06月 24日

5月12日(土)
●キエフ
・環境政策&マネージメント
(説明者)環境コンサルタント・ウクライナ地球化学研究所上級研究員
ボロディーミル ティーヒイーさん
*インタビュー内容
1、チェルノブイリ事故時の状況、事故後の数年の補償の法律制定までの経過
事故後、ソ連崩壊までは統一的法律はなく、ばらばらな法令だったが、ソ連政府から各国政府への命令系統は絶対。その当時、ソ連政府の対策決定は直属の事故対策委員会が副首相レベルで作られていた。当時、チェルノブイリの現場にワーキンググループが常駐して対応した。ソ連政府の決定を直ちに実施する体制がきていた。
中央からの指示に従って現地で動いた結果を報告するという中央政府の決定は絶対的なものであった。上意下達の方式。しかし、事故の規模が大きかったために把握した状況は総括的なものでなく一面的なものも多かった。このシステムの欠陥は、対策に対する費用を誰も計算していなかったことだ。一方では、費用は莫大であったがソ連政府の国家予算全体も膨大だったのであまり気にすることはなかった。
もうひとつの欠点はすべてが国に所属して誰一人としてその決定に批判できなかったことだ。上の人が考えたらそのまま実行してしまう。自分も現場で処理作業にしていた。
当時は、水試験研究所の上級研究員をしていた。87年秋、派遣団が汚染地域を調査。30キロ圏内の汚染水をプリピアチ川左側に深さ1〜2mで数立方キロメートルにわたった流入防止堰をつくった。1ℓ当り185兆bqの汚染水だった。汚染水がドニエプル川に到達すれば汚染が拡大する。どういう対策をとるか悩んだが、88年に現場に行くと、軍が堰を爆破してなくなっていた。
移住や除染も速攻で実施された。
2、保養事業について。
ソ連でも保養はすぐにはなかった。肯定的に評価できるものではなかった。被災者支援は拙速で必ずしも効果をあげたものではなかった。児童の保養ということについては外国からもずいぶんやられているが、個人的な意見では とにかく遠くに連れて行かなければということであったが、しかし、それ以上に重要であったことは汚染されていない食品を確保することであった。
事故2,3年たって、汚染地域は、それほどの汚染ではなかったというところもあった。汚染地域に近いところでも汚染の低いところがあったことがわかってきた。むやみに遠くに保養させるのでなく安全食品提供することが可能であった。
当時、ジトーミル州の子どもが同じジトーミル州の中でやっていればジトーミル州での雇用にもつながった、常に雇用していることで無駄な費用もかからなかったはずだ。その当時国の方針としてサナトリウムでの保養についての費用は国が出した。わずかしか出さなかった為サナトリウム側はやっかいものという受け止め方をした。
サナトリウムに対してソ連時代は国の権力の締め付けがあったが、崩壊後にその権力プレッシャーは緩んでやりたくないと言い出した。しかし、5年の間、汚染値の低く近いところのサナトリウム等保養施設は利用されなかった。そのためインフラも劣化してしまった。ピオニールの施設など使われずにいたものを新たに使えるようにする余計な労力を費やしたりもした。
90年代の末に保養を受け入れていたサナトリウムの施設は貧弱で子どもを連れて行って効果があるのかという状況だった。被災者の補償の為に支出されていたが効果的ではなかった。国の予算がなくなってきた時点でサナトリムはお断り、使えたはずの地元のサナトリムは使えなくなっていた。
同じ市の中でも汚染はスポット状になっていて、子どもたちの為に遠方でなくても汚染の低い場所に学校を作るとか、保養施設を作るとか、できるだけ負担が少ない方法をとるべきだ。汚染地では投資環境に置かれていないため、国の支援が地元に残るような方法を考える必要がある。ウクライナ政府はキューバに保養所も設備したが、そのお金は観光会社、実際には航空会社に流れていった。
甲状腺被曝対策については、スクーリニング、被曝線量の把握など、発症時までの体制作りが必要だ。
3、質疑
質問:通学における放射能被ばくを減らす方策はあるか。
回答:通学も大事。保養と通学とどちらが大事か、外部から決められることではない。というのは学校をどうするか、市の単位でコミュニティ全体になってくると思うのでそれぞれの自治体のレベルで新しいコミュニティの中でも年齢層に応じて、残ろうかどうかの選択もある。
一家で移住する場合、子どもに大きなストレスがかかってくる。住民に情報が与えられていて自主的に選択することが大切。というのは 高線量外部被ばくは減ってくるわけで、どちらがいいか住民が選択できる。数年間の高線量を避けたいと考えるか、人間関係が全部変わってしまうところに移住するのか、それぞれの人が選択できること、住民自体が決断できることが大切。
医学的見地からいえば、放射線ストレスと精神的ストレスはフィジカルでは同じことだ。精神的ストレスの被ばくがより大きく出てくる場合がある。情報を提示して、こちら側の勧告がかみ合わなくても本人が主体的に選択できるようにしないと重大なストレスにつながる。
みなさんの情報連絡センターは、議員どおしの広い意味での情報センターにすれば、専門家の皆さんの意見を聞いて住民が自分で決められるということになり、いいのではないか。チェルノブイリとは違うが、環境開発のプロジェクトでも住民インフォーメーションセンターを作れば実際に機能する。レジュメにも書いたが、91年グリーンピースと連携して情報提供ということで、当時、小さなNGOだったが移動測定室をつくったことがある。
質問:対策費はソ連政府の財政が大きかったとのことだが、ソ連が崩壊しなかったならばうまくいったのか。
回答:その後の展開は、崩壊如何に関わらず現実的に財政難になってきた。国の経済状態を考えた上での法律ではなかったのでいずれは同じ状況になった。ウクライナだけでなくロシアでも。社会的不公正の問題もある。事故処理作業者は劣悪な労働であった。彼らのような労働をした人がほかにいなかったわけではないが、がんについていえば、国連全体で汚染地域が特別に増えているわけではない。いちがいに原発だけにというわけにいかない。汚染地のがん、データもしっかりしていない。
質問:ソ連政府の崩壊にチェルノブイリ原発事故が加速したともいわれるが。
回答:崩壊を加速した三つの要因。経済的なものではなく一般庶民の考え方が国や政府が面倒みてくれるという意識が事故によって変化した。国は自分たちのことを考えていないと。
事故の結果から誰も面倒を見てくれない、30キロ圏内に入って作業をしろといわれて病気になることが起きた。ソ連のシステムの弊害に人的資源を使われて枯渇してしまった。上意下達で、戦争もしていないのに50万以上の人が動員された。その結果、自分たちのことを考えていないことが分かった。もうひとつは経済的な問題。1985年に石油価格が下がった。ソ連経済は軍事的生産、ガスとか石油に依存していた。軍事は発展していたが日常品は外貨によって輸入していた。85年に石油価格が半減してたことにより輸入ができなくなった。
もうひとつは、政治と直結したものではなかったが、89年から言論自由化になってみんなが批判し始めたことが崩壊の要因。
質問:放射線被ばくによるがんは公害被害という指摘もある中で、がん発症に放射線ストレスと精神的ストレスに差はないとのことだが、このことは、今、日本政府がいっていることと表面的には同じように聞こえるが、真の意図は何か。
回答:移住している人を多く知っている。スイスのドキュメンタリーチェックオフと一緒に仕事をした。汚染地域に視察について回った。その時に移住した人の話も聞いた。彼らにとってのトラウマは甚大であった、一生忘れられない傷になっている。なので、病気は被ばくのせいとは考えにくい。心理的なもの大きくある。チェルノブイリ事故でも移住のプラスとマイナスを考えなければならないという意味でいった。
国とって、移住させることが楽であった。汚染数値による移住はよくない。まず、個人の受け取り方も違う。トラウマにならないようにコンサルテーションをとってそれぞれに応じた対策が必要だ。一定以上の被ばくで100%病気になる話ではない。放射能にしきい値がある話ではない。大気中に炭酸ガス増えれば、すべての人が頭痛をおこす。放射能はそうならない。なので放射性物質による汚染の場合は、移住するやり方をとっていいわけではない。
この回答に納得できなかった団員が、木村真三さんと竹内さんへの再質問。
木村さんは、放射線に関する教育についてもっときちんとした形で行う必要あるということと、放射線被ばくのしきい値がないことを、軽く見るか重く見るかは、26年間のチェルノブイリ原発事故のフィールド調査をしっかりとやる中で対応を考えるべきと思う、と。
竹内さんは、住民が様々な情報を得た上で、住民自身が自分で納得して選択を決めていくということを強調しているのであって、移住の選択はあるわけで移住を希望する場合に政府が財政保証をするということになっていることが大事だ、と。
*ウクライナ調査報告。次回は、ウクライナ地球化学研究所で、開発中の食品汚染計の視察です。
