追悼 東井怜さん
2018年 08月 18日
30年来の友人、脱原発運動の仲間。良きアドバイザーであり、優れたオルガナイザーであった、東井怜さんは、福島の理解者であり、何より素晴らしい女性でありました。
病気療養中であった3月21日の突然の悲報に、戸惑い、悲嘆に沈みました。
野辺の送りの後、年来の仲間が東京で会い集い、「東井怜という生き方〜東井さんを偲ぶ会」を開くことになったのです。
「3月21日の突然の訃報から二カ月が経ちました。いまだ、信じられない思いです。しばらく、健康第一の生活を送られていましたから、ほんとにたまにしか会えなくて、電話ではいつもと変わらない声で、元気だよと、言っていたのに‥‥
ひよっこり、またまた現れそうな気がします。レイだからね、という声も聞こえてきそうです。
『東井怜』という生き方
タイトルは これ! と一同一致。
彼女の生き方を学ぶために、いえ、生き方をもっと知るために、集いましょう。(友人一同)
脱原発福島ネットワークは、発足当初より、東井さんとともにあった、と言って過言ではありません。ネットワーキングニュースの「アサツユ」4月号は、追悼特集を組みました。転載させていただきました。
~~~追悼 東井怜さん~~~
私たちの同志、東井怜さんが春分の日に逝去されました。
この30年、陰に陽に、ご指導ご支援をいただきました。
福島の運動にとっても、かけがえのない存在でした。
謹んで哀悼の誠を捧げます。
東井さん、ありがとうございました。
くやしいけれど、悲しいけれど、お別れです。
さようなら。どうか、安らかにお眠りください。
そして、いつまでも、私たちを見守ってください。
脱原発福島ネットワーク・アサツユ編集委員会
佐藤 和良
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東井さんありがとう
武藤 類子
東井さんと初めてお会いしたのは、福島第二原発3号炉の再循環ポンプ破断事故の頃だったと思うのですが、もっと前かもしれません。モンペに手ぬぐいの姉さんかぶりで腕に布バックを下げ、富岡、楢葉の個別訪問をされていた姿を覚えています。それから、自主住民投票、Ⅱー3の再稼働、選挙、低レベルの搬出、東電データ改ざん事件、エネルギー検討会、東電交渉、県内の集会、合宿・・福島での折々の重要な局面に、必ず東井さんの姿がありました。六ヶ所村でも、北電前でも、関電前でも、福井でもご一緒でした。原発事故の後には、浜岡原発を止めるために引っ越された静岡でのつながりを基に告訴団静岡を立ちあげ、沢山の告訴人を集めて下さいました。日本中の原発についての豊富な知識を持ち、原発をなくすためにいつもでき得る限りのことを考え行動されていました。夜中に電話で「東井です」とあの静かな低い声が流れると、「次は一体何を考え着いたのだろう?」と、ちょっと身構えたものです。病を得られてからは、おろおろ心配する私に、「がんは治るの、そう信じて!」と逆に励まされました。本当に日本の反原発運動になくてはならない人でした。でも、思い出されるいくつもの場面の中で、ある合宿で「卵って立つのよ」と言って嬉しそうに私たちの前でやって見せてくれたチャーミングな顔が、何だか忘れられないのです。
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割烹着がお似合いのれいさんへ
はるさん
貴女が亡くなったとの報せに接し、急に思い立ち、貴女の著書「浜岡ストップ!原発震災」を手に取りました。それは今回の福島原発事故発生を「警鐘は間に合わなかった」と捉え、原発が誘発する原発震災を二度と起こさせない為の著作でした。其処には今回の事故に留まらず1989年からの福島の反原発運動について記してありました。
私の福島の反原発運動との関わりは、チェルノブイリ原発の記録映画の自主上映運動参加に始まりました。チェルノブイリ原発事故の被害がまだ生々しかった1989年福島第二原発3号基の再循環ポンプの破損事故が起きました。東京電力は事故を事象として発表するなど、今では彼らのお家芸となった感が在る事故の矮小化を図っていました。事故は深刻でした。しかし何となく事故は重大とは感じていても、原発の機器については素人の私には、起きた事や迫っていた危機について等具体的には解らない事柄ばかりでした。その様な私が知識の拠り所としたのは貴女達が当時発行していた「福島原発市民ニュース」でした。その様な諸々を思う時私は、貴女の活動は産まれて間もない福島の反原発運動を支えその関係はそれ以降も続いていたのだ、と思います。本当にありがとうございました。原発事故は続いているのに貴女はもう逝ってしまったのですね。百歳を超す人も珍しくない昨今何と早い別れでしょうか。大変悲しく残念です。まだまだ聴きたい事は沢山あるのに。
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人生の師~東井怜さん
向井 雪子 (埼玉県志木市在住)
東井さんと出会ったのはチェルノブイリ後の「原発止めよう2万人行動」のころ。そして必然的に「原発止めよう埼玉連絡会」が誕生した。今は亡き岡村ひさ子さんと東井さんの出会いは映画「ホピの予言」だったと後から知った。そのころ、私はまだなにも知らなかった。
脱原発の運動そのものが私自身を変えたのだが、具体的な一つひとつを教えてくれたのは東井さんだった。市民運動とも学生運動とも無縁だった私には、富岡での子連れのキャンプが新鮮だった。同じ年代の子ども同士、仲良くなって子どもたちも楽しそうだった。
その後も富岡、楢葉、など誘われるままに活動に参加した。そうそう、中手さんの選挙運動でマイクを握ったこともあった。人気(ひとけ)のまったくないところで、車の中から叫んだ。吹雪の青森知事選に行ったのも東井さんと一緒だった。
東井さんが福島に足繁く通っている間、岡村さんの指揮のもと、私たちは川越の消費者センターでせっせと「福島原発市民ニュース」の印刷をして発送する、というのを繰り返していた。「東京電力と共に脱原発をめざす会」を埼玉県の消費者団体として登録していたので、堂々と公の場で作業できた。
自治体とも国とも東電とも、凛として対峙し続けた東井さんの後ろ姿を見て、多くを学んだ。最後の活動場所となった静岡の市民ひろばでもかつての私のように何も知らない人たちに人生を教えていたのかも知れない。
そうだ、娘の師でもあった。東井さんのおかげで県立高校に入学できたのだった。感謝!
東井怜さんの著書 「浜岡ストップ!原発震災」
2012年3月25日(発行:野草社、発売:新泉社)¥ 1,620 *アマゾンで購入可。
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東井さんの残したもの
大賀あや子
90年4月日比谷公園集会で第二原発3号機運転再開反対「gogo5.5福島」のアピールを受けて以来、私も東井さんと多くの場面でご一緒しました。
東京の地下鉄終電へ走った夜、いわき行き富岡行きの鈍行列車、富岡町楢葉町の一軒一軒や町議や区長を訪ねた日々、自主住民投票や県議選で賑やかだった富岡町の借家事務所、第二原発ゲート前座り込み、東電本社30時間交渉、手作りの「2000人の声」を富岡駅前の書店に売り込み、どんな時も淡々と熱い想いで語り行動する東井さんでした。
2012年3月東井さんの著書「浜岡 ストップ!原発震災」(野草社)には、主に88年東京電力と共に脱原発をめざす会から95年県議選双葉郡選挙までを15ページに渡って活写されています。
90年11月第二原発3号機運転再開で多くの人が気落ち、活動停滞ということはあったが、東井さんは変わらず行動し続けていました。
その後も、大熊町から浪江町内に借家し、埼玉新座と二重生活をしながら第一原発増設反対、原子力防災、プルサーマル反対等に物心共に尽くし(双葉郡内へ2万枚の福島原発市民ニュースを99号等々)続けました。
ウメちゃんの後、私の間借りも受け入れていただき大変お世話になりました。東井さんは埼玉から来ると、市民ニュースや自作資料やお仕事の答案添削といった書き物、電話をかけ人を訪ね、余暇無しという過ごし方で、自分流簡素な衣食住でした。私はまず不器用で運転も自然農畑の収穫もろくに役に立てなくて申し訳なかった、振り返れば当たり前に多大な影響を受けてきていると気づきます。
私は当時の資料や記録すべて帰還困難大熊に置いてきましたが、今なら関係の方々のお手元のものをお借りしまとめることもでき得ると思い始めています。
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東井怜さんとの想い出
蛇石 郁子
私が、東井さんに初めてお会いした日は、いつだったのかしら。おそらく、福島原発にプルサーマル導入することに対して、県との交渉をするときに同席されていた時が、最初だったでしょうか。埼玉県から駆け付けてくださり、県の担当者に原発内の配管や仕組みや危険性について、専門家のようにとても優しく丁寧にかつ詳しく説明されていたので、理数系に弱い私は、大変心強くなったことを覚えています。後に、高校で物理を教えていたのよと伺い合点がいきました。福島県へは事あるごとに足を運んで頂きましたが、2011年原発震災後、特に2013年夏の参議院選挙では、東井さんには特段お世話になりました。奇しくも原発避難者となってしまった木田節子さんの緑の党からの立候補に対しては、決定前から緑茶会推薦、選挙パンフ・選挙ハガキ作成等並々ならないご助言やご支援を受けました。選挙期間中も新潟、埼玉、静岡、東京、神奈川、千葉、茨城はじめ全国の知人の方々へそれぞれ支援を呼び掛けてくださりました。東井さんがいてくださったからこそ、厳しい暑さにも負けず選挙活動が実現できたのです。市民の挑戦は、残念ながら叶いませんでしたが、あの夏の日、東井さんとともに参議院選挙を担えた記憶は、今も鮮明に覚えています。
東井さん、もっともっと教えて頂きたかった。もっともっと一緒にいたかった。 どうぞ、私たちをこれからもあの優しい微笑みとともに見守っていてください。合掌
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たからもの
うのさえこ
私が東井怜さんに出会ったのは、2010年。福島県庁での「沈黙のアピール」に静岡から来てくださったのが最初でした。東井さんが原安課に行くのに同行しました。穏やかに、論理的に、原発と放射能の危険について話し、貴重な資料を手渡すその姿に、私は深い尊敬の念を抱いたのでした。県の担当者も真剣に耳を傾けていました。
元、高校の理科の先生。少し前までは福島に住み、住民に手作りの通信を届け続けたということ、今は浜岡原発の原発震災を止めるために静岡に居を移したのだということ、長年、東電本社との交渉を続けてきたということを、友人から聞きました。
彼女はいつも希望を持っていました。会えば必ず「お土産を持ってきたんだけどね」と、新しい情報やアクションへの誘いを手渡してくれました。そこにはちょっぴりユーモアやわくわくする気持ちがこめられていて、私はいつも驚かされ、そしてわくわくしたのでした。
2011年3月11日。余震の中で、東井さんからメールが届きました。福島第一原発で全電源喪失している――。
2014年夏、長野で保養したとき。
「いいもの持ってきたのよ」と、彼女が取り出したのは、小さな拡大鏡でした。それで、植物や、虫や、テーブルの木目や…いろんなものを見せてくれたのです。まるで宝物を見せてくれるように。
眠りの中でも、今、目覚めても、ずっと思い出し、考えています。彼女からもらった宝物を、私はちゃんと大切に持ち続けているかな、持ち続けたい、と。
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東井怜さんへ
石塚 由紀(虹とみどりの会)
2013年参院選の応援に郡山に来てくださいましたね。知的で穏やかな中にも、説得力のある語り口に、私はいっぺんにファンになってしまいました。「どこかでお昼食べましょう」と私の運転でファミレスに。さらりと会計を済まされ「いいのよ。乗せていただいたのだから、ここは私がね」と。
緑茶会のこと、原発反対運動の事、少しの時間でしたが、お話を聞かせていただいたこと、忘れられない思い出です。東井さん、私のこと憶えていますか?もう一度お会いして、少し成長した私を見てほしかったです。
お別れはとてもつらいです。長い間、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
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怜さん あなたはすごかった!
佐々木慶子
怜さん、あなたはいつも物静かに、控えめな視線で自らを目立たせないようなたたずまいをしていました。でもあなたはどこにいても結局は要の一角を占めていました。
怜さん、あなたの物事や情勢に対する的確な分析力と判断力、秩序立った論理と説得力、学問的裏付け…などは抜群でした!あなたからの情報は多くの仲間たちからの信頼を得ていました。
怜さん、あなたから発せられる一言一句は慣習・因習・既成枠にとらわれず斬新なものでした。しかしその多くは原点に立ち返らせあらたな視点を切り開くものでした。何年たってもそれらは色あせず、必要に応じて蘇ったものでした。あなたはガン宣告を受けながら、従来の治療法に頼らず、自ら治療方法を選択して、がん抑圧を実証して見せました。
怜さん、あなたは強かった。中でも「‟放射能は環境を壊滅させ、ひいては人類を滅ぼす恐れがあること”そうさせないためにはまず、身近にある原発を止めること、そのために政治力が必要であること」に対するゆるぎない信念を貫き通したと言えるのではないでしょうか。
怜さん、あなたはいつ休養を取ったのですか。あなたは車を持たず私利私欲のない東奔西走ともいえるご活動ぶりでした。そこには押しつけがましさはなく、いろんな所で自発的な地元の意識の覚醒化につながったものでした。
怜さんは3.11の福島原発事故を予測していたかのように、1990年頃から10年位(?)その立地町に一軒家を借りて自宅との二重生活をしながら仲間と共に東電の杜撰な対応と危険性へ警告を発していました。私も浪江町におられる頃知り合い、たくさんのことを教えていただきました。
怜さんは権力者には反論の余地のない迫り方をしましたが仲間には限りなく優しく温かかったです。私は楽しそうに笑う怜さんの笑顔を忘れることができません。
怜さん、これからも天国から私たちの運動を見守り続けてください。ありがとうございました。