福島第一原発過労死裁判、子供さんたちの意見陳述
2019年 05月 27日
ご遺族である息子さんと娘さんのお二人が原告として意見陳述を行いました。
今回も満席の傍聴席、多くの傍聴者が涙なしには聴けませんでした。
ご了解を得て、原告の意見陳述をご紹介します。
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福島地方裁判所いわき支部
民事部御中
2019年5月23日
原告 ●●●●
陳 述 書
僕が学生時代の頃、父はとても厳しい人でした。
長男として、男として、人として、約束事や決め事が沢山ありました。出来ていなければ当然ながらよく怒鳴られていました。
その頃の僕は正直、厳しい父の事を好きではありませんでした。
休みの日にはたまに車のタイヤ交換や、オイル交換など、色々手伝いもさせられていました。
そんな日々の中、東日本大震災が起きました。幸い僕ら家族は無事でしたが、あの日は車の配送をしていた父と連絡が取れず、父は翌日の朝ようやく帰宅し、安心したのを覚えています。
グチャグチャになった自宅の掃除に追われ、水道が止まり、電気が止まり、食べるものが無くなり、
缶詰が食事だったその頃、原発で爆発が起こると叔母からの連絡に、母は僕と妹を車に乗せて、夜の暗い49号線、会津の祖母の実家へ、先に避難していた叔母達の後を追うように走りました。
途中、猪苗代のコンビニがオープンしていて、温かいおでんとおにぎりを食べました。
缶詰が食料だった時、あの温かいおでんがこの世のものとは思えない美味しさに、感謝した事を覚えています。しかし、父は仕事があるからとの理由で、一緒に来ませんでした。
母は、子供達を被曝させる事は出来ないと、いち早く行動した。その翌日の午前中、原発の爆発が報じられ、僕たちは被曝を避けられたのです。その間、いわきにのこして来た父や祖父が心配で、僕たちは毎日毎日、父に電話で早く避難してと訴えましたが、頑固な父が会津にきたのは、その1週間後くらいでした。
避難先から自宅に帰宅した際も、雨の中車の整備をしていました。僕は雨に当たるのが怖かったのに、父は気にしていなかったのか、それよりも車の整備が大事だったのかもしれません。
僕が美容師を目指す為東京に上京すると言った時、父は反対していたと母に聞きました。
きっと父は同じ道を共に歩んで行きたかったのでしょうか、でも僕は違う土俵で父と勝負したいと言う想いも心のどこかにあり、卒業後東京に向かいました。
専門学校の頃はよく家に帰っていましたが、仕事が始まるにつれ、父と向き合う時間も少なくなり、久しぶりに会った時は、どこかよそよそしかったり、でも話してみるとそんなことなかったり、
そしてその頃はいつも以上にとても穏やかな表情の父でした。
何度か父の髪を切ってあげる事が出来ました。口下手な父は僕の前では普通でしたが、職場の仲間へ、「息子に髪を切ってもらったんだ。」と喜んでいた事を後で聞きました。
近いとうるさいが、遠くなると寂しいのが家族なんだなとその時は思いました。
2017年のゴールデンウィークには、母と妹がいる茨城に車を置いて、珍しく電車を乗り換え、一人で僕のアパートまで来ました。その日初めて親父とサシでお酒を交わしました。その時は僕の方が少し緊張していたかもしれません。最近は飲み口が軽いものをとレモンサワーを片手に僕の仕事の話を聞いてくれました。親父は応援してくれていました。親父は仕事どうなの?と質問しましたが、僕の事ばかりで、話してはくれませんでした。
今思えば、話さなかったのか、話せなかったのか、僕にはわかりません。
そこに写る親父の姿は昔とは違って、人生の先輩、そんな印象でした。
仕事に就くようになってから、僕ら二人の関係性は少し折り目がついたんだと思います。
その年の秋に、カットコンテストに出場しました。毎年それぞれの種目で参加して来ましたが、なかなか成果が出せずにいましたが、その年のカット部門で、初めて入賞する事が出来、翌日家族ラインで入賞した写真を送り皆に報告する事が出来、家族が喜んでくれましたが、父からの返信は「稼げるカッコいい男を目指して頑張れ!!」今までらしくない、変に真面目な返信が帰って来て、僕も何気なく返しました。
その18時間後、父は他界しました。この言葉が親父からの最後のメッセージでした。
やっと形に残す成果を見せる事が出来たのに、やっと反対されていた道で喜ばせてあげる事が出来たのに、母から電話で、「●●、いい?落ち着いて聞いて!お父さんが亡くなった。」丁度休憩時間に入り、昼食を買いに外に出ていた僕は母からの電話をタイミングよく取ることが出来た。どうしたの?と普通に取った電話のさきの母の声は、いつもと違かった。僕は昼食を買う気力がなくなり、そのままお店へ戻り、涙をこらえて仕事を続けた。あの時どうやって仕事が出来たのか、今でも思い出せません。
10月の半ばに友人と北海道旅行に行った時、父がこずかいを振り込んでくれたので、お礼にカニと帆立とホッケを実家に送りました。父は会社の方に「今日は息子からの土産で米炊いて食べるんだ!」と喜んで言っていたそうです。送り状も捨てずに取ってありました。そして冷凍庫にはまだ食べていないホッケが残されていました。やっと親孝行らしき事が出来た矢先でした。
お通夜には、会場に入りきれないほどの、父の友人、以前の職場の仲間が来てくれました。父の車関係の友人から「息子が車に興味がないんだ、って寂しそうに言ってたぞ」と初めて聞きました。
学生時代の父の友人達は、告別式までの4日間、毎日自宅の父の亡骸に逢いに来てくれました。
皆声を上げて泣いていました。そして僕にしっかりな!と大きなその手で背中をポンと叩いてくれた事を忘れません。沢山の仲間たち、親族に愛され、見送られる親父を見て、その背中に教わる事がまだきっと沢山あったのだろうと思います。
突然親父が亡くなって早1年半が立つ今日までと明日から起きる出来事の中で親父ならどうするかな?と自問自答しながら過ごしています。
もっと話したかった、もっと酒を酌み交わしたかった。もっと親孝行したかった。
頑固な父は仕事にも頑固で、頑張り過ぎたと思います。でも、原発と言う特殊な環境の元で、
特殊車両の整備に携わっていた父は自分の仕事に誇りを持っていたに違いないと、
だからこそ、父が亡くなってからのあまりにも酷い対応に、許せない気持ちでいっぱいです。
僕の親父の代わりは誰もいない、かけがえのないたった一人の父親です。
なぜ死ななければならなかったのか、息子として、真実を知る権利があると思います。
子や孫に、こんなおじいちゃんがいた事を語り継いで行くために。
そして故郷福島で、原発収束作業に携わる多くの作業員の命を守れる裁判にして下さい。
最後になりますが、裁判を始めるに当たり、意見陳述の場を与えて下さった裁判所に対して
感謝申し上げます。
以上
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福島地方裁判所いわき支部
民事部御中
2019年5月23日
原告 ●●●●●
陳 述 書
父は口下手であまり褒めない人でしたが、私は父のことが大好きでした。
母は東日本大震災の後から仕事の関係で茨城県にアパートを借りながら福島県と茨城県を行ったり来たりしている状況で、高校生活はほとんど父と二人で暮らしていました。
初めは、食事も掃除も洗濯も、分担制がなく二人であたふたやっているような状態でしたが、
私が高校2年生の冬あたりから、平日の食事は私で、休日は父と言う感じで分担して行うようになり、毎日楽しく過ごしていました。
私は高校のお弁当もなるべく作るようにしていたので、一緒に父の分も作るようになり、
父は必ず卵焼きを入れてね、と言って、とても喜んでくれました。
しかし2013年の高校2年生の頃から、週に一度や二度、明日は早いからと言われ、その頃はお仕事が大変そうだなと感じていましたが、3年生の頃からは、平日はほぼ毎日午前3時15分に目覚ましをつけて準備をし、4時には仕事に行くようになり、朝は私が起きる頃には父はいない状況が毎日続いていました。
私は高校で部活をしていたので、朝は時々送ってもらっていたのですが、毎日4時に出勤するようになってからは、朝の送りもなくなり、帰りは18時30分頃に部活が終わる為、最初の頃はその時間にお迎えに来てくれていたのですが、早朝出勤になってからは、帰りも遅くなり、18時30分に終わる部活の迎えに間に合わず、近くのスーパーで1時間時間を潰して待っていたことや、友達の親に送ってもらう事が増え、父をとても心配していたのを覚えています。ですが、父はあまり仕事の話をしない人だったので、私も何も言わずにそっと見ていただけでした。
部活から一緒に帰宅すると、平日は私が食事担当なので、準備し、父はテレビを見ながらソファですぐに寝てしまい食事ができる頃起こして一緒に食べました。食事の時間が唯一のコミニケーションの場であり、時には学校での出来事を相談したりもしていました。
食事が終わるとまたソファでいびきをかきながらすぐに寝てしまい、私はよく、「そんな所で寝ると風邪ひくよ?」と言っていたのですが、何度言っても父は「朝が早いからここじゃないと起きれないんだ」と毎日寝室のベットではなく、リビングのソファで寝るようになりました。今思うと、仕事のことは何も語らない父でしたが、体は毎日限界で相当しんどかったのだと、思います。
私達家族はとても仲が良かったので、父が連休の時や兄の休みが被った時は家族みんなで集まり、食事に行ったりお出かけをしたりと、家族の時間も大切にしてきました。
10月6日父が亡くなる20日前もいつものように家族揃って食事をしました。その時は、父が亡くなるなんてほんの少しも思いませんでしたから、いつも通りの見送りをして、次の連休にね、と手を振ったのが、父の姿を見た最後でした。
父が亡くなった日、授業中の私に初めて母から電話がかかってきたので、何かあったのだと思いラインを打とうとしたら、父が心肺停止と言うラインが来ました。その時頭が真っ白になり急に動悸が始まりパニックの状態でした。しかしその時はまだ父が亡くなっていると言う理解までは出来ず、心の何処かで今頃は蘇生されて息を吹き返しているだろうと思っていました。急遽家に戻り、後から帰って来た母に、亡くなったのだと言う事実を聞いて、私は崩れ落ちました。
この間まであんなに元気だった父が信じられないと、何度も何度も嘘だと思い続けました。ですが、夕方父が運ばれた病院に到着し、父の苦しそうな顔を見たとき初めてこれが現実なんだと胸が突き刺される思いでした。今でもあの時の状況を思い出すだけで、涙が止まりません。そして、この苦しみは一生消えません。
父が亡くなってから、父の友人や仕事先の方から沢山父について話しを伺い、家族でも初めて知る父の姿ばかり聞く機会が沢山ありました。父は口下手で、直接褒められた事は数えきれるくらいしかなかったのですが、仕事先の方に陰で家族を褒めていたり、困っている人を助けたりと、本当に人間の鏡のような父であると改めて気づかされました。
そんな仕事熱心で、思いやりのある父がなぜ突然死ななければならなかったのでしょうか?
父がなくなって1年7ヶ月、私は幼少期の頃からの夢だった看護師になりました。父もずっと応援してくれていました。看護師になったら、沢山親孝行をしていこうと決めていました。
それなのに、直接報告する事も出来ず、これから先、父との思い出も作れずにお別れになってしまった事を悔やんでも悔やんでも悔やみ切れません。ナース服を着た姿を見せたかった。結婚式のバージンロードを手を引いてもらい歩きたかった。孫を抱いてもらいたかった。1ヶ月後の前撮りの成人式の晴れ姿さえ、見せてあげる事が出来なかった。もっともっと思い出を作れるはずだったのに…
蘇生も十分に行ってもらえず、過労死と言う形で命を落とした父の死を無駄にしたくありません。そして、こんなに悲しい思いをする家族がこれ以上出て欲しくありません。
どうか、今現在も、父と同じような大変なお仕事をされている多くの方々を、過労死や事故死から守ってください。そして大好きな父がなぜ死ななければならなかったのか?未だに解明されていない真実を
裁判で明らかにして下さい。
最後になりますが、裁判を始めるに当り、意見陳述の場を与えて下さった裁判所に対して感謝申し上げます。
以 上