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平一小空襲=模擬原爆投下、74回忌

 7月26日は、平第一国民学校(現平第一小学校)空襲の、74回忌です。
 アジア太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月26日午前9時ころ、アメリカ軍のB-29が、いわき市平字揚土にあった平第一国民学校(現平第一小学校)の校庭にパンプキン爆弾(模擬原爆)を投下したものです。学校建物は完全に崩壊され、死者3人、負傷者53人を出しました。空襲による死亡者は、渡邉寿重校長先生ら3人の先生たちでした。アメリカ軍の報告では投下したのは工業地区となっていたそうです。
 終戦の直前に、なぜ小学校が狙われ、一発の爆弾で建物全部が吹き飛んでしまったのか。
 パンプキン爆弾(模擬原爆)は、長崎に投下されたプルトニウム爆弾=ファットマンと同一形状の模擬原爆です。通称パンプキン爆弾といわれ、爆撃機の乗員訓練とデータ収集のため全国に50発が投下され、全国で1000人もの一般市民が犠牲になったとされます。1945年7月20日福島市に、また、1945年7月29日郡山市の郡山駅操車場や日東紡績郡山第三工場にもにも投下され、多数の死者と負傷者を出す大惨事となりました。
 アジア太平洋戦争における、平空襲は、第1回目が、1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲帰りのB-29が焼夷弾を投下、平市街の材木町、鍛治町、研町、紺屋町、梅本一帯など平の繁華街や住宅地が焼夷弾で焼かれ、死者12名。家屋500戸以上が消失しています。第2回目が、1945年(昭和20年)7月26日平第一国民学校(現平第一小学校)のパンプキン爆弾(模擬原爆)で、死者教員3名。第3回目は、1945年(昭和20年)7月28日。
 パンプキン爆弾(模擬原爆)は、広島と長崎での大惨劇と繋がり、人類は初めて、原子爆弾の悲惨を目撃しました。
 1937年7月7日の蘆溝橋事件以降の日中戦争、1939年9月1日以降の第二次世界大戦は、無差別爆撃、大量殺戮、ホロコーストと筆舌に尽くし難い地獄の惨禍を味わい、軍民併せて6.200万人の膨大な犠牲者を出しました。核の時代に突入した戦後も世界各地で戦火はやまず、民族対立、地域紛争、核の拡散も終止符を打つことができない状態です。
 平一小空襲=模擬原爆投下、74回忌にあたり、平第一小学校では、夏休み前の7月11日、中庭に建立されている慰霊碑の前で鎮魂祭が営まれたそうです。あらためて、犠牲になられた先生方の御霊安かれと祈り、謹んで哀悼の誠を捧げます。そして、戦争とその惨禍の責任のありかを問い、子供達の未来のために、戦争を起こしてはならず、平和こそが、全ての原点であると、非戦の誓いを新たにするものです。

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by kazu1206k | 2019-07-26 11:25 | 平和 | Comments(0)

佐藤かずよし


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