敗戦から75年、戦争体験の継承
2020年 08月 15日
苛烈なアジア太平洋戦争で、日本だけで310万人、アジア太平洋で2000万人を超える犠牲者が出ました。あらためて、犠牲になられた全て人々に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
筆舌に尽くし難い戦争の犠牲、敗戦から、戦後の日本は、戦争放棄、戦力不保持を掲げる日本国憲法のもとで、平和国家建設の道を、これまで歩んで参りました。しかし、安倍政権は、2013年の特定秘密保護法の制定以来、2015年には集団的自衛権の容認を強引に進め、「戦争法」である安全保障関連法を制定、2016年の盗聴対象犯罪の拡大、2017年の共謀罪と次々に、「戦争ができる国」に向けて法整備を行なってきました。
安倍首相は、2017年に「2020年までに、新しい憲法を施行する」と宣言して、憲法9条改悪の国会発議を目論んできましたが、未だ果たせておりません。
以下に、あらためて、11年前、2009年8月15日のブログを再掲します。
終戦の日、父の戦場体験の継承
64年前の1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送があり、1937年7月7日の蘆溝橋事件以降の日中戦争、1939年9月1日以降の第二次世界大戦が終った。
軍民併せて6.200万人の膨大な犠牲者。日本、ドイツはじめ帝国主義諸国による侵略戦争によって、アジア・アフリカなど多くの植民地諸国、帝国主義本国の市民が、無差別爆撃、大量殺戮、ホロコーストと筆舌に尽くし難い地獄の惨禍を味わった。
第二次世界大戦の末期、人類は初めて、ヒロシマ・ナガサキで原子爆弾の悲惨を目撃し、核の時代に突入した。戦後も世界各地で戦火はやまず、米ソ冷戦に入って、核兵器の軍拡時代が長く続く。ソ連崩壊による冷戦終結後も民族対立、地域紛争が続き、核の拡散も終止符を打つことができない。
私の父は、鉄道員であった。招集されて海軍航空隊の通信兵として、フィリピン戦線に投入された。アメリカ軍の圧倒的な物量の前に戦線は敗北、父も被弾、ジャングルでマラリヤと飢餓の中に生き延び、終戦を迎えた。終戦によっても兵士は打ち棄てられ、ジャングルの死の彷徨をへてアメリカ軍に発見され投降したときいた。
戦後復員して、母と結婚し私もうまれた。父は、わたしと一緒に風呂に入ると決まって、フィリピンでの戦場体験を話した。マラリヤ、飢餓、戦友、アメリカ軍の攻撃、投降の呼びかけ、士官と兵卒、多くのことをきいた。父の伝えたかったことの何分の一か。わたしの小さな子供心に刻み込まれた。
私は引継がねばならないと思う。そう思って40年近くが立つ。
私の政治活動の原点、社会活動の原点は、父の戦争体験にある。
父の戦場体験をきいたことから全てが始まっている。
戦争を起こしてはならない。平和こそが、全ての原点である。