3月8日、いわき市平旧城跡にあった旧龍ヶ城美術館の解体工事に伴って、敷地内にあった「鉄道記念碑」について保存の声が市民の方々から寄せられました。
この「鉄道記念碑」は、明治31年に常磐線が平まで開通した記念として平駅前に建立され、昭和4年平駅の改築の際に撤去され、有志によって別地で保管され、昭和33年3月3日龍ヶ城美術館前に移されたものといいます。
市民の方からは、「現在記念碑は解体材の下になりまもなく捨てられてしまうでしょう。民間の敷地建物の案件としても、いわき市として残さなければならない文化財と考えます。どうかこの記念碑を未来の市民にも届けられるようご協力ください」というものでした。
早速、現地を訪れますと、美術館本体は解体され基礎部分の撤去工事に入っている状況でした。市民の方の指摘通り、「鉄道記念碑」は何分割化され、解体材の下になっている様子でした。再建時に立てられた「鐵道記念碑 再建のことば」は、原型をとどめておりました。
工事業者の方に事情を伺うと、市の担当者も調査に来たこと、貴重なものとは知らずに依頼主の指示通り工事を進めたこと、分割物の一時保管には協力することなど、のお話されていました。
各地に明治の近代化遺産も多々ありますが、この「鉄道記念碑」は、常磐炭田と鉄道の延伸にかかる先人たちの努力を物語る、貴重な経緯を現代に語り継ぐものとして、歴史的文化的な価値がありましょう。
早速、市の担当課である文化振興課に、市民の保存要望が寄せられていることを伝え、さらに、事業者の話も紹介し、「鉄道記念碑」等の保管、保存と活用の検討を要望しました。
以下、吉田裕徳さんから提供いただいた資料です。
○『鉄道記念碑』
日本鉄道線は常磐二州を貫通すること一百四十一哩半なり。水戸市より起り以て岩沼駅に達す。其工務を総括するは日本鉄道会社建築課長谷川謹介氏なり。其工事を分担するは橋本組、吉田組、盛陽社、鹿島組、西川組、稲田組、中松組たり。明治二十八年二月工を創め、四年を閲して工を竣る。鉄橋百七十二、其最大は阿武隈川と為す。長さ三百七十五間三尺。
隧道三十九、其最長は繫岡と為す。長さ九百五間。即ち板谷碓氷と並び方今三大隧道と称すと云う。余は常北に生まれ、ことごとく二州の形勢をそらんず。沿岸一帯の地は層巒廻丘参錯し、原湿沙磧の間に鋪張す。沃野良田は、ほとんど十中二三に過ぎず。故を以て人口は稀
疎、交通は便ならず、舟路また険。山は鉱石に富み、海は漁塩を産し、林樹森々、牧駓々たりといえども、嘗て利用を尽くす能わず。而して鉄道一貫の気運活動し二州の観改る。期して待つべし。夫れ海の浜、冬は温かく、夏は涼し。山送り水迎う風景の佳は、東海道に比すべし。其の東北に往来するもの寒暑の苦を受けず、坐して山水の勝を歴覧す。以て長途の疲倦を忘る。乃ち此の鉄道は利用と快楽を兼ね得ると謂うべし。また遺憾なき也。土工の有志者一碑を平停車場前に建てんと欲し、以て事を紀す。来りて余に文を請う。往時交通不便之境、今快輪攬勝の区となる。其の堤塘を築き、丘陵を鑿し、鉄橋を架け、隧道を穿ち、着々と程を進め、成を告ぐるは、実に課長の指揮宜しきを得、土工の勤勉力を尽すに頼る。其功労最も伝うべき也。余因って其の梗概を録し、之を繋するに銘を以てす。銘に曰く、
轔轔たる鉄輪 其の迅きこと雷の如し 朝に京城を発し 夕に仙台に至る
これ常と磐と 往くを送り来るを迎う 波奇利に浮び 林良材を出す
田疇まさに闢けんとし 鉱区玆に開く 山は左にして海は右 是二州の財なり
明治三十一年八月
河北 野口勝一撰文並書
※『北茨城市史』(下巻)p-171
○『鐵道記念碑 再建のことば』碑
明治三十一年鐵道開通の記念として平駅前に建立された記念碑が、昭和四年平駅の改築と倶に撤去されたが、当時の先輩識者は史跡としてその遺功を永くに伝うべきであるとの要望を尊重し、原石は今日まで保存して来たが、兪てその機も熟し、今回漸く茲に記録すべき記念碑の再建を観るに到ったことは誠に感激に堪えない
昭和三十三年三月三日
再建人 諸橋元三郎
猪狩四郎
◎『鉄道記念碑』撰文者 野口勝一について
野口勝一は嘉永元年1848年生。
童謡詩人野口雨情の伯父。若き日に積陰塾中根尚保に学んだ。白井遠平も同門。
水戸藩内で党争が激化していた元治元年(1864年)頃、三春村に逃れ1年余熊田嘉蔵宅に寄宿。
兵学を学び、父の恩人でもある河野広中と交わった。明治8年(1875年)磐前県(当時村上光雄参事)の県官となり、家族を伴い磐城平にも赴任している。明治11年、河野広中ら同士と三春に民権政社を設立、板垣退助あて長文の手紙を送る。
茨城県議会第2代議長、衆議院議員三期。
雅号を北厳といい詩情豊かで漢詩漢文文学などに卓越し多くの文筆を残し、ガマの絵をよく描いた。雨情が東京にて学生生活を送ったときはこの伯父の家に居候していた。
茨城における民権派の新聞『茨城日日新聞』を創立し社長。
常磐線開通の中心人物である白井遠平(当時衆議院議員)から度々相談を受け、当初は経済論から計画を危ぶみ否定的であったが、請われて「磐城鉄道延長の議」を草したり、(明治22年7月22日『野口勝一日記』」)、同日記の明治24年11月23日の条では「白井遠平のために常磐鉄道急務論」を作るとある。各界の工作にも協力している。