11月26日、東電株主代表訴訟の控訴審が結審しました。
午前9時半から裁判所前で一審原告らのアピールが行われました。東京高裁第101号法廷で、10時30分から16時30分過ぎまで、原告席で、原告と被告の双方の弁護団による2時間ずつ合計で4時間以上にわたる最終弁論が行われ、終日、原告として東京高裁で最終弁論を傍聴しました。
旧経営陣の原発事故の責任を認め13兆3210億円の支払いを命じた一審判決をさらに強固にする原告弁護団の論陣。木村結さんと武藤類子さんお二人の原告を代表した意見陳述(下記に掲載)も被害の実相を的確に陳述したものでした。
判決は来年6月6日11時から、101号法廷で言い渡されます。
一審は、被告東電旧経営陣が津波対策を怠った責任を認め13兆3210億円の支払を命ずる原告の勝訴、二審でも維持され、2022年6月17日の最高裁の反動判決を打ち返していく橋頭堡になることを期待します。
東電株主代表訴訟と最高裁にある東電刑事裁判とは、兄弟姉妹の裁判です。
刑事裁判は12月19日10時に、東電元経営陣の刑事責任を追及する第10回の最高裁行動を行います。
最高裁に『東電と密接な関係のある最高裁・草野耕一裁判官に「東電刑事裁判」の審理を回避するよう求める署名』を提出し、午後からは、島崎邦彦さん(元原子力規制委員会委員長代理、元地震調査委員会委員 長期評価部会会長、元日本地震学会会長)を講師に集会を行います。みなさまのご参加をお願いいたします。
●木村結さんの意見陳述
原告の木村結です。
1986年のチェルノブイリ原発事故と、1989年に起きた福島第二原発3号機の再循環ポンプ水中軸受リング脱落事故をきっかけに「脱原発・東電株主運動」が発足し35年間東電に脱原発を訴え続けています。
株主総会の際、廃炉提案、原発の安全を担保するための委員会の設置なども提案し、また地震対策、津波対策なども質問してきました。特に中越沖地震後、頻繁に面談し公開質問状や申し入れを行いましたが、東電は真剣に向き合おうとはせず、日本の叡智を集めた地震本部の長期評価すらまともに対応せず、福島原発事故を招いたのです。
小さな勢力でも事故の抑止力になっているという自負がありましたので大きな喪失感に襲われました。それでも私たちは、株主として経営者の責任を果たさせるため、この訴訟を起こしたのです。
原発事故直後の9月には、富岡町の避難区域にある知人の帰宅に同行しました。新築の家の中は無惨にも物が散乱しています。アルバムや記念の品を持ち出そうとしましたが、放射能で汚染されているので断念したとのこと。屋根には放射能が降り積もっているのでしょう。ガイガーカウンターを上にかざすと針が跳ね上がります。道路脇は雑草が背丈以上に生い茂り、時折痩せ細った牛の群れが疾走していきます。知人は持参したお米を道路のあちこちに撒きます。取り残された牛や犬猫たちが少しでも空腹を紛らわすことができるように。
今年8月には、浪江町や大熊町を弁護士さんたちと2日かけて見てまわりました。許可がなければ自分の家でも帰宅できず、自宅への道は柵で塞がれ施錠されています。また、自殺防止なのでしょうが、ひとりでの帰宅は許可されません。
原発から4.5キロの双葉病院と介護施設には436名の患者がいましたが、227名はバスに乗れずに放置されました。更に大渋滞の中を転々と避難せざるを得なかったために裁判で被害者とされているだけでも44名が命を落としたのです。玄関先にたくさんのベッドが放置されていた写真が脳裏に浮かびましたが、門の中はどこもかしこも鬱蒼と草が生い茂り、白い姥百合が咲いていました。精神科病棟のベランダには鉄柵がありました。大きくて立派だった病院は、壁も剥がれ落ち、朽ち果てるのを待っているようでした。
特養老人ホームサンライトおおくまは、原発から2キロの至近距離だったため、避難が早く死亡者はゼロでした。しかし、慌てて逃げた様子は館内全域に見てとれ、何とか持ち出そうとして断念したのか、大きなフレコンバッグに個人情報のカルテが詰まっていました。
菅野みずえさんのご自宅にも行きました。事故の半年前にリフォームしたばかりの大きな家で、避難者を大勢受け入れていました。事故直後、1万人近くもの浪江町の住民が津島地区に避難しましたが、のちにこの地区の放射線量が高く、大勢被曝したことが判明しました。家の前には大きく素晴らしい通り門がありましたが、先日壊されました。修繕には作業員の膨大な被ばくを伴うため、苦渋の決断だったそうです。その土地独特の文化財も放射能は容赦なく絶滅させていくことに改めて怒りが湧きました。
原発事故は、人の命だけでなく、故郷、そこに根付いた文化、そして人としての尊厳を根こそぎ奪います。私たちは、企業が起こした事故に対しては会社だけでなく、責任ある立場の経営者個人も責任を取ること、その覚悟を持って経営にあたることを望んでいます。そうでなければ、役職を辞すれば責任を取ったことになってしまう現在の無責任な企業体質は残ります。特に多くの犠牲を国民に強いる原発保有企業の経営者には大きな責任が伴うことを判決で示していただきたいと願っています。
以上
●武藤類子さんの意見陳述
私は、福島県田村郡三春町在住の武藤類子と申します。この度は、陳述の機会を頂き、ありがとうございます。
福島は四季折々に自然の美しい場所です。紺碧の海と緑の森、澄んだ青空、豊かな実り、沢山の生き物たちの命の輝き。これらは、今も変わらずそこにありますが、福島原発事故の起きたあの日から、私たち被害者には別の風景となり、私たちは別の時間を生きることになりました。
私は、今年8月に、裁判所に提出する原発周辺の地域の写真の撮影のために、弁護団とともに、帰還困難区域に入りました。原発から4.6㎞に位置し、過酷な避難の途中で50人以上の患者さんが亡くなった双葉病院は、鬱蒼と繁った樹木と草に覆われて、ひっそりと建っていました。
原発から2㎞の老人ホームには、ベッドや紙おむつ、薬、書類などが散乱し、大慌てで避難をしていったそのままの様子が見て取れました。3月11日の朝・昼・晩の献立がホワイトボードに書き残されていました。
熊町小学校では小さな木の机の一つ一つに、辞書が置かれ、沢山の付箋が貼られていました。ランドセルも靴も筆を洗う黄色いバケツも、自転車置き場の中で倒れた自転車もヘルメットも、みな置き去りにされたままでした。
物音はなく蝉の声だけがあたりを包んでいました。13年前には確かにここには人の暮らしがありました。でも、今は誰もいない。止まった時の上に、悲しみとも無念ともつかない何かがしんしんと降り積もっていました。今も私たちの暮らしのすぐそばに、そんな場所が存在します。
一方、帰還困難区域の周辺の、住民がほとんど戻らない土地に、莫大な復興予算が投じられ、事故前にはなかった多くの最先端技術を開発する大規模な施設が次々と建設されています。そこで働く人の多くは他県からの移住者であり、移住者のために真新しい集合住宅や大規模な商業施設、学校などが建設されています。
これが「復興」とばかりに大きく宣伝され報道されます。一方で、原発事故前の元の暮らしがしたいだけ、という人の声はかき消され、避難者たちへの支援は打ち切られていき、国の賠償責任は否定され続けています。このような状況は、今も続く原発事故の被害を見えにくくさせ、風化を促していきます。
原発事故は、現在も収束したとは言えません。「原子力緊急事態宣言」も未だ解除されていません。事故を起こした原子炉には、放射線量が高すぎて取り出すことが極めて困難な880トンの核燃料デブリが存在し、1、2号機の使用済み燃料プールには、1000体以上の使用済み燃料と新燃料が今も残されたままです。そこで働く約4000人の原発作業員の被ばく労働は、更に過酷さを増しています。
漁業者の反対を押し切って強行したALPS処理汚染水の海洋投棄、除染で集めた汚染土の再利用計画、年間被ばく限度20ミリシーベルトの避難解除基準などは、福島に暮らす住民の放射線防護を蔑ろにしています。
しかし被害者は、意見や価値観の違いから起こるこれ以上の分断を恐れ、不安や不満の声をのみ込まざるを得ません。
福島第一原発から約45㎞の場所に暮らす私の家の周りにも、事故で拡散された放射性物質が今も存在し、山菜もキノコも、庭のミョウガや青紫蘇も、ブルーベリーもあれから一切口にはしていません。焚火で料理をすることも薪ストーブで薪を燃やすこともしていません。自然の恵みの中で経営していた喫茶店は廃業しました。友人たちの早すぎる死や病気に対し、常に放射能の影響を懸念しないではいられません。
原発事故とは、日常も、生業も、健康も、命も、人権も踏みにじるものです。
東京電力が引き起こした事故の被害は、本来償いきれないものです。しかし、せめてその責任が最も大きい5人の被告には、自らの責任を認め賠償をし、東京電力が被害者へ最大限の賠償ができるようにして欲しいと望みます
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裁判官の皆さんによる公正な判決を、心から期待いたします。