NPO法人原子力資料情報室は、4月4日、声明「憂慮すべき政府の国民意見排除方針―パブリックコメント制度の改悪―」を公表しました。
「最近、政府がこのパブリックコメント応募数の急増を問題視していることが立て続けに報じられた」として、「民主主義にはコストがかかる。だが、そのコストは私たちの主権を守るために必要なコストだ。パブリックコメントはその重要なツールの一つであり、拡大することはあっても縮小は許されるものではない。私たちは、パブリックコメント制度の改悪に強く反対し、むしろより実質的な政策策定段階での市民参画を求める。」としています。
以下に、ご紹介します。
憂慮すべき政府の国民意見排除方針―パブリックコメント制度の改悪―
2025年4月4日
NPO法人原子力資料情報室
パブリックコメントとは、「行政機関が政令や省令等を定めようとする際に、広く一般から意見を募り、その意見を考慮することにより、行政運営の公正さの確保と透明性の向上を図り、国民の権利利益の保護に役立てることを目的」として、2005年6月の行政手続法改正により法制化された制度である[i]。
最近、政府がこのパブリックコメント応募数の急増を問題視していることが立て続けに報じられた[ii]。同一内容の意見やAIを使った意見、導入しようとしている政策に対して「反対」とだけ書いた意見などが多数来ているのだという。処理のための職員の負担も大きいという。ただ増えている案件を見ると、原発政策や除染土(従来基準の80倍までの放射性物質を含む土壌)の再生利用、感染症対策、マイナンバーカードなど、国民の関心が高く、かつ賛否の分かれる政策を推進しようとする場合が多いことがわかる。
原則論として、パブリックコメントに意見応募が多いことは、政策への関心の高さを示すものであり歓迎するべきことだ。賛否だけを書いたものであっても政府に意見を伝えることには意味がある。仮に賛否を示すことに意味がないとすれば、住民投票や最高裁判所裁判官国民審査にも意味がないことになる。またAIで生成した意見であっても、AIへの指示次第で回答内容は変わることから、結局は応募者の意見を示すものであることに変わりはない。
政府は匿名意見が多いことも問題視している。しかし、政府に意見を伝えたいが、身元を明かしたくないと言った事情は当然あり得る。たとえば、政府職員が政府案に反対する意見を提出したいと思っても実名などを明らかにしなければならない場合、不利益取り扱いを恐れ、意見提出を差し控えることは十分あり得る。現在はそうでなくとも、将来的に市民のパブリックコメント応募意見が、思想監視などほかの政策に流用される懸念もゼロではない。実際、2002年、防衛庁は情報開示請求者の身元情報を調べてリストを作り、内部で回覧していた[iii]。
また政府は同一投稿者が複数件の意見を提出することも問題視している。だが、意見提出が複数回になることは必ずしも不合理とは言えない。パブリックコメントの投稿サイトの仕様上、6,000字の文字制限または添付ファイルでの投稿であってもファイルサイズに制限があるうえ、場合によっては数百ページにわたる資料への意見を一度で提出しきることは難しいからだ。
報道によれば政府は応募意見の件数競争になっていることも問題視しているようだ。だが、一般に、政策を形にするには年単位の時間を要する。その最終段階でパブリックコメントを実施したとしても、当該政策を固めるために費やした政策資源を考えれば、応募意見で方針を大きく変えることは難しいことは想像に難くない。実際、パブリックコメントにかける原案の策定段階で行われるインフォーマルな関係者との接触と、そこでの調整がパブリックコメントでの原案修正率の低さの要因であるという指摘がある[iv]。多くのパブリックコメントで、意見の反映が表面的なものに留まる結果、件数で国民の声を伝えようとしていることも一因ではないか。パブリックコメントを取りまとめる職員の徒労感も問題視されているが、政策に意味のある変更を加えないにもかかわらず処理に時間がかかるとすれば、職員の士気低下は当然であろう。
政策形成の最終段階で行われるパブリックコメントは、政策の周知や透明性の向上、国民意見の聴取、応募意見への政府回答で政策の意図や解釈を示すことができるため、有意義な制度だといえる。ただし、それだけでは不十分だ。たとえば第7次エネルギー基本計画においては、従来記載のあった「可能な限り原発依存度を低減する」との文言を削除し、「必要な規模を持続的に活用」すると180度方針転換した。この理由について、政府は原子力事業者や原発立地自治体からの要請があったためと回答している。第7次エネルギー基本計画のパブリックコメントへの応募意見は、多くが脱原発を求めるものだったというが、そうした声は原子力事業者や原発立地自治体よりも軽視されたといえる。政策形成段階での利害関係者の声は重視され、最終段階での市民参画は軽視されるのであれば、パブリックコメントはいったい何のためにやっているのかという声が、実施者、国民の双方から出てきて当然といえよう。むしろ、政策策定の初期・中間段階での実質的な市民参画を実施するといった対処こそが求められている。また政策策定過程でのインフォーマルな関係者との接触の透明化も求められる。
近年、民主主義のコストを否定的にとらえる動きが散見される。例えば米国では、2025年3月3日、アメリカ合衆国保健福祉省はパブリックコメントを行政手続法で求められている対象以外にも拡大する通称Richardson Waiver(リチャードソン免除)を撤廃すると発表した[v]。Richardson Waiverは1971年以来、行政の透明性や国民参加を向上するために実施されていた措置だ。4月1日には同省傘下のアメリカ疾病予防管理センターとアメリカ食品医薬品局の情報公開担当部局の職員の大半が解雇されたとも報道されている[vi]。
日本でも、ここ数年、市民が政府に求めた意見交換会などで、出席した官僚が自らの所属や名前を出さず、映像にも映さないことを求める状況が続いている。名前・顔出しで出席した際に、中継映像を見た視聴者から嫌がらせ行為があったことが原因だという。だが、たとえば業界団体などと面談する際に、出席した政府担当者が匿名で議論するなどあり得るだろうか。
国会議員もそうだ。米国連邦議会の議員会館に行くと、多くの市民がアポイントメントなしに議員会館に入館し、政治的なプラカードなどを持ちながら議員事務所を出入りして様々なロビー活動をしている姿を目にすることができる。一方、日本では、衆議院や参議院の議員会館への入館は議員事務所との約束のある者に制限され、また政治的アピール[vii]も禁止されている。国民の代表でありながら国民との対話を拒否し、政治のど真ん中でありながら国民の政治的アピールを拒否しているのだ。今回のパブリックコメントの改悪検討も含め、政府機関や国会議員らが政策遂行において、市民の活動をある意味で敵視しているからこそ、防衛的な反応が出てきているのではないか。
民主主義にはコストがかかる。だが、そのコストは私たちの主権を守るために必要なコストだ。パブリックコメントはその重要なツールの一つであり、拡大することはあっても縮小は許されるものではない。私たちは、パブリックコメント制度の改悪に強く反対し、むしろより実質的な政策策定段階での市民参画を求める。
以上
[iv] 原田久. 2011. 広範囲応答型の官僚制-パブリック・コメント手続の研究-. 信山社.
[vii] たとえばメッセージ性のあるTシャツの着用やプラカードなど
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