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津波被災地・薄磯地区で意見交換

 3月12日、いわき市議会の復興創生対策特別委員会は、2月13日、14日の久之浜町、岩間町、小浜町に続いて、平薄磯地区に伺い、津波被災地の現地調査を実施しました。調査事項は、「津波防災地域の現状と課題について 」です。
 午後4時すぎ、薄磯地区区画整理事業や防災緑地、海岸防潮堤などの状況を、区長さんらの説明を受けながら視察後、慰霊碑で線香を手向け、津波犠牲者のみなさまのご冥福を祈りました。
 午後6時より災害公営住宅薄磯団地の集会所で、薄磯地区復興対策協議会との意見交換会を行いました。復興協議会や区長さんなど地区の代表のみなさんから、地区の現状と問題点、住民みなさんの生活再建や課題をお聴きし意見交換いたしました。
 災害公営住宅薄磯団地は、103の入居可能世帯数に対して現在99世帯の入居で小学生7名、中学生5名という現状であること、薄磯地区区画整理事業は185区画中、10世帯入居、15世帯工事中の状況で空き区画の問題があり、空き地利用対策で「市の土地を建て売り住宅や企業誘致できないか」、また被災者の生活再建・支援で「災害公営住宅の家賃減免の期限切れ、空き室の増に伴い共益費も増えることへの対応どうするか」「災害公営住宅の減免継続をしてほしい」などの要望がありました。さらに、「人口減の中で、薄磯地区の魅力をどう高めるか」「子育てにやさしい薄磯をアピールする」「保育所から小・中学校の一貫校に出来ないか」などの意見や31年3月供用開始の「震災メモリアル施設」について「学習施設としての活用。防災ツアーなどで活用ができないか」、さらに「スケートボード、イベントの計画があり、駐車場脇の空き地借りられないか」などの意見が出されました。
 復興創生対策特別委員会では、4月にも津波被災地での調査・ヒアリングを継続し、いわき市はじめ国など各関係機関との意見交換も実施しながら、今後、提言を取りまとめていく予定です。

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# by kazu1206k | 2018-03-12 23:29 | 議会 | Comments(0)

3月11日、福島原発震災から丸7年。

 3月11日、鎮魂の日。
 東日本大震災、福島原発震災、あの日から丸7年。
 やはり、心穏やかではありません。思いがこみ上げてきます。
 人々がのみ込まれた大津波、取り返しのつかない福島第一原子力発電所の事故。未だ政府の原子力緊急事態宣言も解除されていません。地震の揺れを感じるたびに記憶が戻っていきます。
 改めて、東日本大震災、福島原発事故で犠牲となられた方々に哀悼の誠を捧げますとともに、被害を受けたすべてのみなさまに、心からお見舞いを申し上げます。

 日本最大の公害事件、東電福島原発事故の刑事裁判、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電旧経営陣3被告の第1回公判は昨年6月30日に開かれました。
 東京地裁104号法廷で、東電旧経営陣の勝俣、武黒、武藤の3被告は、無念の最期を迎えた、被害者である双葉病院の患者の遺族の皆さんが見守る前で、「予見は不可能で刑事責任は適用されない」と事故の予見可能性、結果回避可能性を否定し、無罪を主張しました。
 これに対し、検察官役の指定弁護士は「被告人らは、原子力発電所を設置する事業者である東京電力の最高経営層として、原子炉の安全性を損なうおそれがあると判断した上、防護措置その他の適切な措置を講じるなど、原子力発電所の安全を確保すべき義務と責任を負っていた。『適切な措置』を講じるか、それができなければ、速やかに原子力発電所の運転を停止すべきであった。それにもかかわらず、被告人らは、何らの具体的措置を講じることなく、漫然と原子力発電所の運転を継続した。被告人らが、費用と労力を惜しまず、課せられた義務と責任を適切に果たしていれば、本件のような深刻な事故は起きなかったのである」と冒頭陳述で指摘しました。
 東電が大津波を予測し防潮堤など津波対策に取り掛かっていたこと、武藤被告らが経営判断でこれを中止した経緯などが、当時の会議記録メモや社内メール、東電設計の解析報告書などの証拠によって示され、事故の予見可能性と結果回避可能性、3被告の刑事責任を明確にしたのです。

 本年2月28日、第4回公判が開かれ、東京地裁刑事第4部永渕健一裁判長あての『厳正な判決を求める署名』の第3回提出分2,026筆(合計は6,619筆)も提出されました。
 第4回公判では、東京電力の100%子会社・東電設計の社員久保賀也氏が証言。同社は企画・調査から設計・監理まで行うコンサルティング会社。久保氏は、同社の土木本部構造耐震グループに所属、事故3年前に福島第一原発の津波想定を15.7mの津波高とまとめた津波計算などの技術責任者を務めていました。
 第4回公判、検察官役の指定弁護士の石田省三郎弁護士による主尋問では 
●「何の仕事をしていたか」の問いに「耐震バックチェックの一環で地震の随伴事象である津波の検討、1Fと2Fの津波評価の業務委託を東京電力から依頼された」。「平成19年(2007)11月に業務委託の打診があり、協議の都度文書で確認し、契約仕様書(発注書)をつくった」と証言。カウンターパートナーは、業務委託依頼された東京電力原子力設備部の金戸氏で、協議の場に必ずいたことを証言しました。
●久保氏は、管理職として3人で、15.7mの津波高シミュレーションを行い、平成20年(2008)3月、最大で15.7mを超える可能性がある速報値を金戸氏や高尾氏らに面会して手渡した。この際「東京電力には津波対策などの問題は残ると言われたが、結果は受領された」と証言。 また、同年4月、10m盤の上に10mの防潮堤を作る鉛直壁でどこまで津波高が来るかの試算依頼に対して、試算を金戸氏らに手渡したことを証言しました。
●平成14年(2002年)の文部科学省地震調査研究推進本部による地震活動の長期評価についても、平成19年(2007)11月時点で、「長期評価、新しい知見として取入れることが決まった訳ですね」との問いに、「そうです」と証言しました。
●15.7mの津波高シミュレーション後に、東京電力から東電設計に対し「なんとか津波高を解析で小さくならないか」「解析上の摩擦係数の見直しできないか」と依頼があり、証人は「数値は土木学会の手法に則っているので、変更はできない」と断ったこと。解析条件を変えて試算したが、数値は15mを超え変わらなかったこと、などを証言しました。

 東日本大震災、福島原発震災から丸7年がすぎ、福島原発事故の被害者、震災被災者は、原発再稼動と東京オリンピックの後景に追いやられ、復興の加速化=帰還政策の促進、長期低線量被曝の受忍を強いられています。
 刑事裁判の証人尋問では、証人の方々から、重要な証言が出ています。今後も、様々な事実が明らかにされると思われます。
 私たちは、引続き福島から公判の傍聴にかけつけ、院内集会を行います。被害者参加人の代理人として法廷に出席する告訴団の弁護団からの報告も行います。公判内容を国内外に発信していきます。

 真の被害者救済の道を開くため、事故原因の究明、旧経営陣3被告の有罪を求め、東京地裁が、厳正な判決を下すよう求めていきます。どうぞ、東京電力福島原発刑事訴訟「厳正な判決を求める署名」を一人でも多くの方に広めてください。裁判を傍聴してください。
 一緒に手をつないで一歩一歩前へ進みましょう。よろしくお願い申し上げます。

◉『東京電力福島原発刑事訴訟 厳正な判決を求める署名』
*判決の日まで、提出し続けますので、随時郵送をお願いいたします。(署名用紙は、コピーしてお使い下さい。)下記からダウンロードしてお使いください。郵送もできます。
☆『東京電力福島原発刑事訴訟 厳正な判決を求める署名』http://xfs.jp/VaIvwK   (署名用紙を郵送することもできます)
☆ネット署名は、http://chn.ge/2AlRC4Q からできます。

◉第5回以降、6月までの公判期日は、以下の通りです。(全て10:00〜17:00)
4月10日(火)、11日(水)、17日(火)、24日(火)、27日(金)、
5月8日(火)、9日(水)、29日(火)、30日(水)、6月1日(金)、12日(火)、13日(水)、15日(金)

*院内集会は4月17日、5月9日、6月1日、15日を予定しています。
*院内集会の無い日も、裁判終了後の報告会と記者会見は毎回行います。
# by kazu1206k | 2018-03-11 23:56 | 脱原発 | Comments(0)

ドイツ週刊紙ツァイト、2011年4月14日号の記事

 明日、2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故から丸7年を迎えます。
 福島第一原発に出された政府の原子力緊急事態宣言は、未だに解除されず、政府による帰還政策の強行によって、事故の風化と被害者、被災者の不合理な分断が進行しています。
 そのような状況下で、改めて、福島原発事故後の2011年4月初旬ドイツ週刊紙ツァイトの記事を、紹介します。
 ドイツのジャーナリストの取材を通してみた当時の様子です。当ブログの2011年 06月 03日「ドイツ週刊紙ツァイトの記事」です。

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ドイツ週刊紙ツァイトの記事
2011年 06月 03日

ドイツの主要週刊紙ツァイト(DIE ZEIT)4月14日号に掲載された記事です。
ツァイトは、1946年2月21日創刊、週刊発行の全国新聞でハンブルクに本拠があります。発行部数は約48万部、推定読者数は200万人以上とされ、最も広く読まれるドイツの新聞のひとつといわれます。http://www.zeit.de/index

翻訳者の山本知佳子さんが日本語訳をしてくださったので、4月初旬ドイツ紙のジャーナリストの取材を通してみた様子を以下に掲載します。(本文中、敬称略)

●ひとりで東電と闘う - 長靴をはき放射線測定器を手に、国と原子力産業相手に挑戦を続ける地方政治家がいる

午前9時、いわき市小名浜にある役所の人ごみの中で、市議会議員の姿佐藤和良を見つけるのはむずかしい。マスクを二重につけ、雨合羽に身をつつみ、長靴をはいているため、顔が見分けにくいせいもある。いわき市は人口34万人、福島原子力発電所の周辺では一番大きな町だ。放射能を出し続けている原子炉から約45キロ離れている。この役所の建物の1階は、朝から多くの人が出入りし、あわただしい。復興助成金や補償金が必要な人、ヨード剤を取りに来る人などであふれている。

建物の外では、ボランティアのグループが待機している。10人ほどの男性が、2台のミニバスを連ねてやってきたのだ。皆原発に反対する人たちで、そのうちふたりはアウトドアライフのトレーナーを仕事としており、職場のミニバスをこの旅行のために提供した。グループのリーダー格になっているのは静岡市議会議員宮沢けいすけ。佐藤和良の友人でもある。「佐藤さんの言うことを聞いておけば、こんな事故にはならなかったはず」と宮沢は言う。「だからこそ、こうしてボランティアとして佐藤さんのいる所に来て手伝っているのです」。長期にわたって原子力開発を進めてきた日本という国において、佐藤は原子力産業を批判し続けてきた。福島の大災害が起きてから、彼の闘いは果たして、それ以前より容易に、そして成功の見通しがたちやすいものになったと言えるのだろうか。一匹狼の反対派にとって有利な時がやってきたのだろうか。

宮沢はセーター、穴のあいたジーンズにピンクの運動靴といういでたちだ。佐藤は宮沢に、雨合羽を着、長靴をはくようにすすめる。宮沢たちのグループは車を路上にとめて一晩を過ごした。これからすぐ仕事を始めることになっている。佐藤が彼らをふたつのグループに分ける。ひとつのグループは、津波の被害者たちの手伝いをし、もうひとつのグループは原発周辺の避難地域の放射線測定を行うようにという指示を受ける。佐藤は、津波被害者の手助けをするグループに、事務所の裏からスコップを持ってきて手渡す。もうひとつのグループは放射線測定器を受け取る。佐藤のジープが動き出す。小名浜港周辺を通ると、そこには岸壁の上に横たわるいくつもの大きな船舶、枝にひっかかって、まるでこずえ全体にしゃがみんこんでいる巨大な鳥のように見える車の残骸といった光景が広がる。このあたりの住宅街は津波によって破壊し尽くされた。正常などという言葉はここには存在しない。

このちょうど3日前、福島の大災害が起きてから初めて東京で開かれた反原発の集会に、佐藤は現地からの報告者として出席した。核に批判的な世界中の人たちの間では知られた名前であり、広島長崎の被爆者を支援する原水禁が事務所を置いている労働組合ビル、総評会館がこの集会の会場となった。1980年代までここでは、世界中からヒバクシャを招待して定期的に国際会議が開かれていた。けれどもその後、原水禁の活動も前ほどさかんではなくなった。広島長崎の著名な被爆者たちの中にはすでに他界した人たちも多い。「核技術と人類の共存はありえない」という被爆者たちの根本的主張に耳を傾ける人たちが日本ではいなくなってしまった。福島での出来事がこういう状況を変えることになるのだろうか。

この晩、佐藤の前には約300人の聴衆が会場を埋めくした。若い人は少なく、ドイツの68年世代のように社会の慣習に反抗し、ベトナム戦争に反対した年配の世代、髪に白いものの目立つ人たちの方が多い。ここに来た人たちは髪の毛をあまり染めていない。57才の佐藤は世代的にはもっと若いし、実は髪の毛を染めている。(*本人注:髪は染めていません)

彼は1960年代終わりごろ,10代の時から、政治活動に熱心だった両親と共に平和運動に参加していた。父親は鉄道員で、当時勢いのあった国鉄労働組合で活動し、母親は教員、核問題にも批判的な立場をとっていた日教組の組合員だった。佐藤は両親と共に、福島第二原発から8キロに位置する楢葉に住んでいた。すでに60年代から東電は、第二原発と、そこから北に15キロ行ったところにある第一原発の用地買収を始めていた。漁民は漁業権を売り、農民は土地を手放すように迫られた。すすんで売り渡す者、値段交渉に時間をかける者、生活の糧となる権利を奪われることにあくまで抵抗する者などいろいろだった。「東電は、原発に反対する住民を分裂させ、最後には金の力で地域をばらばらにしたから、あの頃から東電には怒りを感じていた」と佐藤は振り返る。原発に反対する無所属の候補者として2004年に、いわき市議選に立候補した佐藤は当選し、2008年にも再選されている。

東京の集会で佐藤は、テレビに映る東電幹部が着ているような作業服を着て登場した。胸に横幅の広いポケットがついている。彼は2時間あまりの講演の間、休憩時間を除いて、ずっと立ちっぱなしで話を続けたが、雄弁にして、ユーモアもあり聴衆を笑わせ、何度も大きな拍手を受け取った。声をはりあげるわけではなく、むしろさりげなく「福島の事故で世界は変わりました。私たちはヒバク中、ヒバク後の世界にいるのです」と言ってみせる。日本では、広島長崎の原爆被害者をヒバクシャという。だから、我々はみなヒバクシャになったという表現はずしんと重たい。

3日後、いわき市の破壊された海岸線をボランティアたちと一緒に移動している最中、佐藤は魚の卸売りを営む中田のもとを訪ねる。いわき市の入江に位置する中田の大きな木造の家屋は、津波によって半壊した。家を支える柱や屋根は傾き、壁も水がさらっていってしまった。佐藤と中田は、全壊として家を取り壊すか、このまま修理をするか、どちらがいいか相談をすすめる。春の日差しの中、中田は分厚いアノラックを2枚も着ている。彼は58才だが、代々受け継いできた商売は100年も続いているという。「佐藤さんは友だちですよ。ただ今まで反原発運動がそんなに大事だとは思ってこなかった。でもこうなった今、佐藤さんの言っていたことが正しかったんだとわかりました。このあたりの人たちの80パーセントぐらいがそう思っているはずですよ。倒れた家を建て直すことはできる。でも放射能はいつまでも残ってしまう」。

中田はしばらく話を続けた後、疲れた様子で地面に視線を移した。佐藤はあいさつをして中田の家を去る。漁師や、農民、商人たちにとって、放射線にまみれた未来を思い浮かべることがいかにむずかしいか、佐藤にはよくわかっている。原子炉内の放射能汚染があまりにもひどく、技術者や労働者が中に入ることもまだない状況なのだ。ということは福島第一原発は、これからも空気、水、土壌を放射能で汚染し続けるということだ。いわきに住んでいる人間はみなこの事実を知っている。とりわけ中田のように年配の日本人は、広島長崎のヒバクシャたちの過酷な運命を学んできた。放射能物質がすぐにはなくならないこと、何年もたってからガン発症につながることなどを、戦後日本では学校教育の中で教えてきた。中田も、いわきの魚がしばらくは売れなくなるだろうことを自覚しているに違いない。ただ彼はそのことを口には出そうとしない。

東京での講演会の翌日、佐藤は首相との面会を試みた。しかし結局、何の飾り気もない窓のない部屋で1時間待たされた上、原子力保安院の役人2、3人が出てきただけだった。いわきとその周辺地域の地方議員を代表して、佐藤は役人たちに、7点にわたる要望を説明した。原子炉冷却の効果的遂行、避難地域の明確な設定、放射線測定器の設置、学校の休校措置、農民と漁民への補償、福島県の原発停止、エネルギー政策の再考。欧米であれば、こうした要求は、原子力をめぐる論争においてむしろメインストリームであると言っていい。しかし日本では、こういう内容の議論はグリーンピースが提起することはあっても、政治にたずさわる者の口からはまずほとんど出てこない。保安院の役人たちも、佐藤の要求をにべもなくはねつけただけだった。そしてその後、佐藤が記者会見を行ったときも、聞きにきていたのは3人のフリージャーナリストだけで、大手の新聞社やテレビ局の記者はひとりも姿を現さなかった。

いわきの地元でも佐藤の立場は容易ではなかった。「いわきは古い殿様の町のようで、お城に住んでいるのは東電だ」と彼は言う。だからいわきの多くの住民は、もうとっくに東電の存在を受け入れ、東電と共に繁栄する道を選んだ。だが佐藤はそうした人たちのことを非難しようとは思わない。「彼らにとっても他に選択肢がなかったのだから」。今回の事故で、こうした地元の状況が変わる可能性があるかもしれないと、佐藤は思う。でも知ったかぶりをするつもりはないし、とにかく具体的措置として、放射線測定、特に市内だけでも120ある学校での測定を要求していくつもりだ。

「佐藤さんがしゃべっているのは意味のないことばかりですよ」と言ってはばからないのは、鈴木英司、いわき市の副市長を務めている。59才になる鈴木は、やはり作業服を着て、ネクタイはしめていない。市役所が地震でひどく損傷を受けたため、役所は一時的に別の場所に移っている。その一室にすわっている鈴木は、選挙で選ばれた政治家ではなく、いわき市の役人だ。そして佐藤の立場の反対者でもある。儒教の伝統が残る日本では、政治家より官僚、役人の方がいまだに発言権が強い。

とはいえ、鈴木も、原発事故が起きた今、事故前と同じような話を繰り返すことができないのはわかっている。「電気消費に頼りきった経済と生活のあり方を問い直す必要があるのは確かです」という鈴木だが、具体的な話になると歯切れが悪い。福島第二原発を再び稼動させるべきかどうかという質問にも、はっきりと答えようとしないし、福島県の放射線測定値に頼るのではなく、いわき市も独自の測定を行うべきではないかという質問にも明確な返事は聞かれない。それでいて、原発に反対している佐藤のことになると多弁になる。「100箇所で放射線測定しろと言っているようだけれど、私に言わせれば論理的じゃないですよ 非科学的と言ってもいい」。

けれども福島の事故が起きてから、鈴木の部下たち、もっと安い給料で働いている市の公務員たちの間には変化が生まれつつある。「いわき市で佐藤さんのことを知らない人はいないですよ。今となってはみんな原発に反対です。事故が起きる一ヶ月前にはそうではありませんでしたけれど」というのは市民課で働く年配の一公務員だ。もともと自分は保守的な人間で、こういう事態の中でも、市民の間にパニックが起こらないようにするにはどうしたらいいか頭を悩ませていると言う。けれども、とにかくもうだまされるのはいやだと思っている。「実は妻は今ここの野菜は買っていないんです」と声をひそめて言うのだが、おそらくこうした発言でさえも、市役所で働く一公務員にとっては、おおいなる秘密を打ち明けるような覚悟がいるのだろう。

いわき市政に力を持つ政治家たちは、市民の間に生まれつつあるこうした新しい反抗のきざしに気づいている。そして何としてもそうした芽をつぶしたいと決意しているようだ。「みんな不安なんです。だからどういうふうに生活を立て直すのかを市民に示す必要があるんです」と語るのは根本茂、市議会の自民党議員代表をつとめる人物だ。ごつごつした印象を与える59才の根本は、浴室設備の工場を動かす経営者だが、原発からほど遠くないところにある彼の工場は、放射線汚染の危険のため閉鎖せざるをえなくなった。「地元の農民や漁師と同じで、私も仕事を失ってしまったということです」。

だが根本は、3月11日以前の状況認識をそのままひきずっているようだ。彼の言うことは、「東電城」の城内で話される言葉とおぼしき表現に他ならない。「日本は、ハンモックぶらさげてのんびりしていられるような南の島ではないんですよ。私たちが原発を受け入れたのは、日本の発展につながるものだったからです。今になって簡単にあきらめるわけにはいきません」。原発を批判する佐藤の言葉に耳を傾ける気はなさそうだ。「佐藤さんは市民の不安をあおるんです。それに何にでも反対する人です。鳥がひっかかるのが心配だといって、風力発電にだって反対するんだから」。こうした根本のようにかたくなな人物や、根本よりはいささか柔軟そうには見える鈴木副市長などを、東電はどうやらこれからもあてにしていいようだ。

自分を取り囲む環境の厳しさを口にすることのない佐藤だが、東京に住むふたりのこどもたちの話をすると、ふっと湧き出る感情があるらしい。もう成人したこどもたちも原発に反対している。福島の状況を考えると、両親に東京に来てほしいという気持ちはあるけれど、原発に反対して闘っている父親の姿を目にしたふたりは「頑張って」と言ってくれたという。佐藤がこの闘いをあきらめることはない。
(日本語訳:山本知佳子)
# by kazu1206k | 2018-03-10 23:53 | 脱原発 | Comments(0)

「福島の汚染の現状と被曝を考える」たらちね測定報告会&今中哲二講演会開く

 3月3日、いわき市文化センターで、午前10時から「たらちね測定報告会」、午後2時から「今中哲二講演会」が開催されました。

 「たらちね測定報告会」
 東日本大震災からまもなく7年。
 「認定NPO法人いわき放射能市民測定室たらちね」の地道な日常生活に寄り添った放射性物質の測定活動の報告。子どもたちを守る、お母さんたちの素晴らしい積み上げに頭が下がります。

 1、2017年のガンマ線測定の報告
 総検体数956件のうち食材576件のセシウム検出例(たけのこ、ふきのとう、わらびなど)、土壌200件(大熊町、いわき市、東京都など)、資材植物109件(いわき市の落葉・苔・エアコンフィルター、宮城県のエアコンフィルター、千葉県の灰など)、水道水30件(いわき市、郡山市、本宮市、福島市など)、空気中ダスト39件(いわき市内幼稚園、保育所、小・中学校など)、液試料(福島第一原発周辺の海水、いわき市内の山水、地下水など)、海砂などの測定結果が丁寧に報告されました。

 2、2017年のβラボの報告
 トリチウムとストロンチウム90の分析方法や測定値からの計算方法の見直しを行い、総検体数101件のうちトリチウム32検体、ストロンチウム69検体。測定の内訳は、食品10(伊達市の蜂蜜、千葉県のいわしなど)、液体類54(福島第一原発南側の海水、いわき市内の山水、井戸水、湧水など)、魚類15、野菜6、土壌17。

 3、2017年の海洋調査
 海水採取、海底泥採取、魚類採取、プランクトン採取などを、船長さんや鈴木譲東大名誉教授(生物学)、釣りボランティアなどの皆さんにより、2月、4月、7月、8月の4回実施。試料は、海水(表層、下層各40㍑)、魚(アイナメ、メバル、ヒラメなど)。測定核種は、セシウム137、自由水トリチウム、有機結合型トリチウム、ストロンチウム90。

 4、たらちねクリニック
 2017年の5月に内科・小児科の診療科目で開所、6月から保険診療を開始。
・子どもドック 2017年は、136名。
・甲状腺検診
・血液・尿検査
・ホールボディーカクンタ– 2017年は、455名。
・尿中セシウム測定 2017年は、169名。

 5、2017年の甲状腺検診
 18カ所で実施。総受診者957名のうち、福島県内475人、県外482人。平成4年4月2日から平成24年4月1日生まれの受診者582名のうち、A1判定35.6%、A2判定63.7%、B判定0.8%、C判定0%。
 6、沖縄・球美の里 子ども保養プロジェクト

 「今中哲二講演会」
 「原発事故から7年:福島の汚染の現状と被曝を考える」がテーマ。
 長いチェルノブイリ研究を踏まえ、原発事故直後から迅速な追跡調査をされてきた今中哲二先生のお話しも、「20ミリシーベルト」やストロンチウム、トリチウムがどのような影響をもたらすのか、など時宜を得たものでした。
 
 1、7年前をふりかえって
・原発と同じくメルトダウンしてしまった日本の原子力防災体制
 ーきっかけは地震・津波だが、福島原発事故は人災。
 ー東電刑事裁判で明らかになった2008年の防潮堤計画
 ー3月15日の夜に、放射能の雲と雪・雨が重なった
 ー2011年3月29日、飯館村調査 長泥曲田30μSv/h、飯館村の人々は普通に暮らしていた。
 ー同年4月22日、飯館村などが計画的避難区域に指定、昨年4月1日に多くの避難指示解除。
・いわき市の初期被曝評価
 ーいわき市のヨウ素131による甲状腺被曝:1歳児47.4mSv、10歳児24.7mSv、大人14.4mSv。
 ーいわき市の1年間の実効線量のまとめ:1歳児3.42mSv、10歳児2.21mSv、大人1.75mSv。
 ー1年間の実効線量:UNSCEARの値:1歳児4.13mSv、10歳児3.04mSv、大人2.19mSv。

 2、汚染と被曝の現状
・飯館村の調査報告
 ー2016年、合計249戸の家屋周辺サーベイ調査。避難指示解除前の除染後の現状把握。
 ー除染後の飯館村の家まわりの放射線量は、毎時0.5〜1.0mSv程度。
 ー飯館村居住時の被曝量の計算例、毎時0.5mSvで年間約2.5mSv。毎時1.0mSvで年間約5mSv。
・現在の汚染状況
 ー食べ物と一緒にセシウム137を100bq取り込んだ時の内部被曝量:
  1歳児約1.2mSv、10歳児1.0mSv、大人1.4mSv。
 
 3、放射能汚染との向き合い方
・どこまで我慢するか納得しながら決めること
 ー汚染地域で暮らすとは、余計な被曝しない方がいい、ある程度の被曝は避けられない、
  この相反する2つのことにどう折り合いをつけるか。
 ー20mSv以下で安全・安心なわけではない。
 ーCT検査を受けた子ども68万人の追跡調査、CT検査によるガン増加データ(オーストラリア)。
・廃炉とトリチウムにいて
 ー燃料デブリの取り出し、使用済燃料の取り出し、汚染水の処理
 ートリチウム、半減期12.3年。ベータ崩壊によりヘリウム3に変化する際に弱いβ線(平均5.7keV)放出。エネルギーが小さく体内に滞留する平均が10日と短いため、原発からのトリチウム水の排出基準値が6万bq/ℓと緩くなっているが、同じ内部被曝では、放射性セシウムに比べ健康影響は大きい。

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# by kazu1206k | 2018-03-09 23:53 | 脱原発 | Comments(0)

東電の不当なADR和解案諾否留保、日弁連が抗議

 日本弁護士連合会は、東京電力福島第一・第二原子力発電所事故の被害者の賠償請求について、東京電力が訴訟係属を理由として、原子力損害賠償紛争解決センターの和解案の諾否を留保している問題で、「原子力損害賠償紛争解決センターの和解仲介手続における東京電力の不当な和解案諾否留保に抗議し、迅速な和解仲介手続の進行を求める会長声明」を3月2日公表しました。
 原子力損害賠償紛争解決センターの和解仲介手続の重要な前提として、国費による損害賠償資金が交付されていながら、和解案の諾否を留保するという、東京電力の悪辣な態度は、許されません。

原子力損害賠償紛争解決センターの和解仲介手続における東京電力の不当な和解案諾否留保に抗議し、迅速な和解仲介手続の進行を求める会長声明

2017年8月頃から、原子力損害賠償紛争解決センター(以下「センター」という。)での和解仲介手続において、申立人が東京電力ホールディングス株式会社(以下「東京電力」という。)を被告として損害賠償訴訟(以下「別訴」という。)を提訴している場合において、東京電力が、その別訴が係属していることを主たる理由として、和解案の諾否を留保し、更には和解案提案前にそれを予告する事例が相次いでいる。  

そもそも、センターは、東京電力福島第一・第二原子力発電所事故(以下「原発事故」という。)の被害者の賠償請求につき、訴訟での解決には時間を要することから、適切な時期に損害賠償を支払って被害者の生計や生活を維持するため、迅速かつ適正な解決をする機関として設立されたものである。  

訴訟が係属していることを理由に和解案の諾否を留保するということになれば、訴訟での解決を待たなければセンターにおける和解仲介手続が進められないということになり、迅速かつ適正な解決を目指すセンターの存在意義に関わることになる。そのことが、結果として別訴を提起している被害者にその取下げを強いることにつながり、裁判を受ける権利の保障の観点からも問題である。なお従前は、訴訟係属中の原告が申立人となっていても、別訴に先行するセンターでの和解による賠償金の支払いは、後行する別訴において、弁済が認定される等の調整がなされ、別訴の判決確定前にも東京電力との間で和解が成立してきている。

東京電力は、2011年11月4日に認定された特別事業計画及びその後の累次の総合特別事業計画において、センターが提示した和解案の尊重及び和解仲介手続の迅速化に取り組むことをうたってきており、和解案尊重を条件として、国費による損害賠償資金が交付されてきた。そして、それがセンターの和解仲介手続の重要な前提となってきたものである。

当連合会は、東京電力に対し、訴訟係属を理由とする東京電力の和解案諾否留保に抗議し、このような対応を直ちに改善し、迅速な和解仲介手続の進行に協力するよう求める。  

あわせて、原子力損害賠償紛争審査会及びセンターに対し、上記のような東京電力の対応を是認することなく、センターの存在意義を踏まえた然るべき対処をすることを求めるとともに、政府に対して、東京電力に対し適切な指導をするよう求める。

2018年(平成30年)3月2日
日本弁護士連合会      
 会長 中本 和洋 
# by kazu1206k | 2018-03-08 23:24 | 脱原発 | Comments(0)

佐藤かずよし


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